第3話 織原家の朝は忙しい

 じいちゃんいわく、パンには『女の全て』が詰まっているらしい。


「いいか利苑。パンのあつかいが下手な野郎は女の扱いも下手な野郎だと相場が決まっているんだ。分かるか?」

「……どっちも経験が浅いからよく分からない」

「ああん? なんだよだらしねえな。要は技術テクニックが必要なんだよ。扱い方が下手だとパンも女も喜んでもらえないからな」

「…………あ、うん。そうなんだ」


 寝起き直後の頭に説教まがいな指導は正直言ってキツかった。主に下ネタの部分が。


 俺の実家、織原おりはら家は祖父母夫妻が自宅兼用の店舗でパン屋をいとなんでいるため、とにかく朝が早い。


 パン屋の朝は日の出よりも早い。


 具体的な時刻を言えば爺ちゃんは午前四時くらいからパンの仕込みを始めている。


 俺は五時起きだけど、低血圧だから早起きは苦手だ。


 高校生になってからアルバイトの代わりに店の手伝いを始めて約一年。半人前の俺は未だに爺ちゃんからパン作りの基礎を学んでいる。


 パン作りの基礎といってもまだパンの成形しか出来ない。しかもその成形も一人前とは言い難い。爺ちゃん婆ちゃんに遠く及ばないどころか手伝いになっているかも怪しい。


 やはり俺という人間はどこまでも不器用なのだろう。


「いいか、利苑。技術がないのを言い訳にしてたらいつまで経っても上達しねーぞ。技術つーのは経験の積み重ねだ。要は回数をこなさないと駄目なんだよ。いいか、失敗を恐れるな。当たって砕けてこい」

「……それはパンの方? 女の方?」

「だから言ってるだろ両方だよ、両方」

「…………」


 回数をこなせって言われても。パンはともかく女性経験とか男女交際の回数をこなすのは道徳的に不道徳アンモラルだと思うんだけど。


「で? どうだったんだ? 何か収穫はあったのか?」


 俺がせっせと作業をしている最中に爺ちゃんはミキサー(パン生地をこねる機械)を操作しながらそんな事を俺に訊いてきた。グオングオンとミキサーの音がちょっとだけうるさかった。


「何が?」

「とぼけんな昨日の結果だよ。いつもより帰りが遅くなったんだ。日向子ちゃんとは何かしらの進展あったのか?」


 爺ちゃんの頭の中で俺の遊び相手=日向子の先入観は何なんだろうな。遊び相手なんていくらでもいるのに。

 見栄張った。いくらでもは居なかった。


「日向子じゃないよ。別の人」

「んだよ。まさか野郎共と遊んでたわけじゃないよな?」

「そこらへんはノーコメントで」

「はっ!? まさか別の女の子か?」

「……爺ちゃんほどプレイボーイじゃないからそれはないよ」


 そこから先はいつもの流れだ。予想通り爺ちゃんは「爺ちゃんの若い時はな〜」という年寄りにありがちな話口で自慢話を始め仕事の最中でも開きっぱなしの蛇口みたいにつらつらと昔話を垂れ流していた。

 存外、年寄りという生き物はお喋りが好きらしい。


 某アニメ映画(ジ◯リ)の刷り込みでパン職人は無骨で無口で硬派なイメージがあったけど……爺ちゃんを見ていると世のパン職人は案外お喋りで女好きなのではと考えてしまう。


「いいか利苑。会話が出来ない野郎は女にもモテないしお客さんにもモテないんだよ。分かるか? 色気のない男は客商売で成功出来ないって相場が決まってるんだ」

「へー、そうなんだ」

「おう。だから俺はこうして成功してるんだ。それにこの前なんてスナックのママに「歌いに来てね」って誘われたからな」

「…………」


 まだ続くのか。というか、それは単なる営業トークなんじゃ?


「……爺ちゃん。そのへんにしておかないとまた婆ちゃんに麺棒で叩かれるよ」

「あん? 大丈夫だよ。クレアのやつ最近耳が遠くなってきたからこんくらいじゃ聞こえ──」

「私がなんだって?」


 厨房内に吹雪の様な冷たい風が吹いた。間違いなくエアコンの風ではない。


 噂をすればなんとやら、丁度いいタイミングで台所で朝食の準備を終えた婆ちゃんが厨房に入ってきた。ふと時計を見れば時刻は午前七時に迫っていた。


「あなた、また利苑にいらないことを吹き込んでたわね?」

「いや、違うんだクレア。俺はただ可愛い孫に世の中のなんたるかを教えて、たんだよ……」


 蛇ににらまれた蛙ならぬ婆ちゃんに睨まれた爺ちゃん。立場の弱い者が強者に震える構図は世の中の摂理なんだろう。


「へぇ、それとスナックのママがどう関係してるのかしら? 私、すごーく気になるわ」

「誤解だクレア。俺はやましいことなんて──」


 バキィッ!


 婆ちゃんの持っていた麺棒と爺ちゃんの口から変な悲鳴が上がった。


「痛えなっ! 俺がくも膜下出血で死んだらどうするんだ!」

「あら、そうね。そうなったらあなたよりも良い男性ひとを探すわ。そうなったらお墓は別々になるわね」

「縁起でもないこと言ってんじゃねえ!」

「あら、いやね冗談よ」


 夫婦喧嘩は犬も食わないとはよく言ったもんだ。時間も頃合いになったので俺はその場を離脱するべく婆ちゃんに残りの仕事を任せた。


「利苑、朝ご飯の前に莉奈りなのこと起こしてあげて。最近あの子寝坊が多くなってきたから」

「うん。分かった」


 焼けたパンの匂いがただよう厨房を出て俺は自宅の二階に向かう。


 向かう先は妹の部屋。二階にある自分の部屋の奥に俺の妹、莉奈の部屋がある。


 部屋のとびらには可愛い感じのデコレーションと文字で『Lina』と書かれたネームプレートがかかっている。その扉の向こうから「ピピッピピッ」と目覚まし時計のアラームが聞こえてきた。


「莉奈。もう時間だから下に降りてこいよ」


 コンコンとドアを軽くノックして反応を待っていても聞こえるのは耳障りなアラーム音だけだった。


「よくもまぁ、あの音の中で眠り続けられるな」


 そんなことを呟き、妹の部屋のドアノブをガチャリと回す。鍵はかかっていない。


「入るぞ」


 家族とはいえ無断で部屋に入るのはマナー違反だと思うので一応断りを入れて扉を開いたら、扉の隙間から黒い毛玉がちょこちょこと廊下に出てきて俺の足元で朝の挨拶がわりに「ニャー」と一声鳴く。


「おはようクロエ。ちょっと俺の代わりに莉奈を起こしてやってくれ」


 そんな俺の切実な願いが動物である飼い猫に通じるわけもなく、黒猫クロエはちょこちょこと歩いて階段の方へ消えていった。


「…………」

 アイツもアイツで自由奔放だよな。

 まぁ、猫に人間の言葉が通じるわけないんだけど。

 マジ面倒くさい。

 そう思いながら開きかけだった扉を開いて妹の部屋に入る。


 部屋に立ち込める甘い感じの匂いで自分と妹の性別が違うことを嫌でも思い知らされる。


「起きろ莉奈。いい加減起きないと“また”学校に遅刻するだろ」


 部屋の電気を付け、目覚ましのアラームを切り、ベッドの上でぬいぐるみに埋もれている妹に目をやる。


 ミルクティーで毛染めした様な淡い色の茶髪が部屋の照明でキラキラと輝いていた。これがヘアカラーじゃなくて地毛なのだから血筋という遺伝子の継承は厄介やっかいなもんだ。

 

「……んっ」


 こちらの呼びかけが聞こえたのか、妹はベッドの上でコロリと寝返りを打った。


「ん……あと五分」


 妹の口から出た言葉はよくあるベタな返事だった。


「駄目だ起きろ」

「んんん〜あと360秒だけ」

「言い直しのどさくさで一分増やすな。起きろって」

「自分で起きるの面倒だから、にぃが莉奈を起こして」

「…………」


 出たよ妹のワガママ。

 こういうのは性格なのだろうか。

 俺の妹、織原莉奈おりはら りなは同年代の小学六年生に比べてかなり甘えたがりな性格をしている。甘えんぼ気質と言えば聞こえだけは良いんだろうけど。


 どれくらい甘えんぼかと具体例をあげれば──


「にぃ。あのね、今日の莉奈は起きたばかりで頭がボーってするの」

「……だから?」

「うん。だから、にぃが代わりに莉奈の服を着替えさせて」


 こういう事を平然と兄に要求する駄目な妹だったりする。


「にぃ。お願い、して?」


 両手を広げて抱っこの要求おねだりをする仕草はとても十一歳には見えない幼稚ようちな所作だった。


「…………」


 それくらい自分でやれ。

 喉元まで出かかった言葉を引っ込めて溜息を一つ吐く。


「はぁ、分かったよ」


 ここで莉奈の要求をこばんだらまた「学校に行かない」とか言ってぐずり出すだろう。それがきっかけで不登校にでもなったら面倒だ。


 これ以上、爺ちゃん婆ちゃんに迷惑はかけられない。


「起こすからしっかり掴まれよ?」

「はーい」


 嬉々とした顔で俺にしがみ付く莉奈。

 コアラの親ってこんな気分なのかな。

 心の中でそんな下らないことを考える。


「にぃ。今日もパンの匂いするね」


 クンクンと鼻を鳴らす莉奈。不用意に兄の匂いを嗅ぐなと言ってやりたい。


「莉奈ね、パンの匂いがするにぃが好き。あとじぃじとばぁばも」

「ふーん。クロエは?」

「うん。クロエも好き。時々獣くさいけど」

「ははっ。そっか」


 バンザイのポーズで待ち構える妹が着ているモコモコしたパジャマを無心でせっせと脱がしていく。

 そして、妹の可愛い感じの下着姿があまり目に入らない様に注意してクローゼットの扉を開ける。


「今日は何着て行くんだ?」

「にぃが好きなの選んで。にぃなら間違いないから」

「なんだよその兄ちゃんに対する絶対的な信頼は」

「だって、にぃは莉奈のにぃだから」


 それは理由になるのか? 甚だ疑問だ。


「……そうか。俺には流行のコーディネートとかよく分からんけど」


 そう言って頭の中に残っている大神さんの春コーデを意識して服を選んでいく。


 フリフリした感じの淡いピンク色のスカートとリボンの付いた白いブラウスを莉奈に手渡す。


「……ん? にぃが着せるんだよ?」


 なんで渡したの? と、小首を傾げる莉奈。勘弁してくれ。


「そうか、なら今日は髪の毛やってやらないからな。もう時間もないしボサボサのまま学校行けよ」

「むう。にぃのイジワル」


 俺の言いたいことを察したのか莉奈はモゾモゾと服を着替え始める。


 兄とはいえ男の前で堂々と着替え始めるなと言ってやりたい。この妹には羞恥心がないのだろうか。もうお年頃だからそこらへんの自衛は出来る様になって欲しいんだけど。


 育ち盛りの小学生とはいえ来年は中学受験も控えている。兄としては起床も含めてそろそろ妹に自立して欲しいと思っている。


「にぃ。靴下とって」

「あん? フリフリの短いやつと縞々しましまの長いやつとどっちが良い?」

「フリフリ」

「ほらよ。リボンは赤で良いよな?」

「うん」


 靴下を受け取った莉奈はベッドに腰掛け、何の恥ずかしげもなくガバッと足を開いた。

 足を開いたせいで可愛い感じのパンツが丸見えだった。


「おいこら。靴下履く時に足を開くな。女の子なんだから気を付けろ」

「ん? にぃしか居ないから大丈夫だよ?」

「誰もいなくてもスカート履いてる時は足を閉じろ」

「はーい」


 ちゃんと理解してるのか分からない気の抜けた返事だった。

 ほんと、妹の情操教育どうなってんだ。貞操観念なさすぎだろ。


「ほら、髪の毛とかすから椅子に座って」

「ういー」


 ある程度の回数をこなしているから身支度の手伝いは順調に進んだ。

 今では引き出しの下の段に靴下と下着が入っているのも把握しているし、ヘアブラシで長い髪をとくのも、リボンを結ぶのも、男のくせにすっかりとこなれてしまった。


 兄妹の微笑ましいスキンシップ。

 そんな感じで見方を変えれば収まりだけは良いんだろう。


 でも。やっぱり俺は莉奈に自立して欲しい。

 兄離れしてもらわないとおちおち彼女カノジョだって作れないから。


 いや、それは彼女が出来ない理由にならないか。


「にぃ。腕が疲れたから朝ご飯食べさせて?」


 二人きりの朝食でも雛鳥ひなどりみたいに口を開けてあーんを強請ねだる妹を見て俺は思う。


 とにかく今は我慢の時だ。

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