お題:うらもり【裏漏り】 急須・やかんなどから湯水を注ぐとき、注ぎ口の下をつたって湯水がこぼれ落ちること。

 白かったはずのテーブルクロスは、わら半紙みたいにくすんだ色になり茶色いシミだらけ。毎年実家に帰省するたびに堪らなくふさいだ気分になるのはあの色のせい。

 10歳下の弟は食べるのが下手でずいぶん遅い。小学校高学年になるまで自転車も補助輪付きでないと乗れない。箸もうまく持てずにスプーンばかり使っていてお皿からこぼしながら食べていた。そんな不器用な弟も都心の大学へ入学し、今やこの家は年老いた父母が2人だけ。

 私が帰ってきても、切れかけた蛍光灯と同じようにこのダイニングが明るくなることはない。


「ねえ、いい加減にこれ変えようよ。私が買ってこようか」

「そうね」


 母はそう言いながら新しいテーブルクロスを買う気はない。生地が丈夫だからと洗濯して使っている。

 無数にある、しょうゆ、ソース、コーヒー、麦茶の裏漏りの跡。鍋のふきこぼれ、スパゲティのミートソースやうどんつゆの跳ね。そんなひとつひとつの消えない斑点が、父母にとっては懐かしい思い出なのだろう。

 ひどく汚れた時や弟が嘔吐した時もこのテーブルクロスを洗うのは私の係だった。弟が汚すたびに仕事が増える。その習慣から逃げ出したくて高校を卒業するとすぐ全寮制の短大に入った。2年で卒業し小さい薬缶やかんメーカーに就職した。


 たかがヤカンといえども奥は深い。外国ではケトルと呼ばれ多くの家庭で使用されているが、裏漏りしない品質の良いヤカンはやはり日本製が一番なのだそうだ。

 注ぎ口が直線的なモノはおしなべて注いだあとにつーと湯が漏れる。99%漏れないといわれる注ぎ部分の曲線を研究開発し販売しているのがウチの会社の商品。デザインは地味だが質実剛健で信頼と信用があり1コ1万円以上もするのだが確実に売れている。

 私の子どもの頃のような経験から机やテーブルクロスを汚したくない性格の人にはぴったりだ。

 2000年代からは電気ケトルという、ガスではなく電気で小容量の熱湯を短時間に作れる商品が出回った。一人暮らしの若者などがカップ麺やコーヒーのために利用するのに便利で売れたが、床に置いて放置することも多く一般家庭では子供が転倒させてやけどを負う事故が多発している。

 薬缶やかんで湯を沸かす場合は子供の手が届かないコンロの上にあるため安全なのだが、電気ケトルはコンセントのある所ならどこでも置いてしまうのでより危険である。

 その点においても日本製のものは密閉構造となっていて倒してもこぼれないという工夫がされており世界で評価されている。


 あの不器用な弟が22歳で結婚しその3年後に子供が生まれたという噂を聞いた頃、実家の父母が共に亡くなったという知らせがあり、弟とともに実家に里帰りした。

 憎たらしかった弟はあの頃とは別人でスマートな笑顔で背が高い、いい男になっていた。身内だけではあるが小さな葬儀も取り仕切り香典の管理なども一人でこなした。やがて誰もいなくなったダイニングで弟が口を開いた。


「このテーブルクロス、まだ使ってたんだね」

「あんたが汚したからこんなに真っ黒。洗わされた身にもなってよね」

「このテーブル、ねーさんが生まれた時にオヤジが日曜大工で作ったんだって。濡れて腐ったり汚してカビたりさせたくなくてこの布切れで守ってたのかもね」

「え?…だったらテーブルクロスだってビニール製で水をはじくのにすればいいじゃない」

「これもねーさんが生まれた時にかーさんが手編みで作ったんだよ」

「…」

「このくすんだ色も、オレが生まれた時にはもうこんな色だったなんて覚えてる? ねーさん、オレが汚してこうなったって思ってるだろ?ホントはねーさんが小さい頃にこぼしまくったシミなんだってかーさんが言ってたよ」


 姉の目から裏盛りのように水が一滴こぼれ、テーブルクロスにシミがひとつ増えた。

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