第47話

「何時に出るんだ?」フィルが尋ねる。


 月夜は彼をテーブルの上に置き、立ち上がって軽く伸びをした。


「うーん、九時くらいかな」


「月夜、最近柔和になったな」


「何が?」


「態度が」


「態度?」


「ああ」フィルは頷く。「出会ったときは、もう少し鋭利な感じだった」


「そうかな……」月夜は言った。「自分では分からないけど……」


「それは、分かろうとしないから、ではないか?」


「分かろうとはしている」


「じゃあ、本当は分かりたくないんだろうな」


「うん、そうかもしれない」


 キッチンに入り、冷蔵庫を開けて麦茶のボトルを手に取る。コップに液体を注いで、月夜はそれを飲んだ。久し振りの水分補給だった。


 キッチンの奥にある小窓の隙間から、年越しの喧騒が聞こえてきた。周囲にある住宅から、テレビを観ながら蜜柑を食べたり、蕎麦の準備をしたり、といった気配が伝わってくる(正確には気配とは呼べない。月夜の勝手な想像だ)。今まで、自分は、そういったいわゆる行事というものをやってこなかったな、と彼女はなんとなく考える。けれど、特にやりたいとは思わなかった。だが、まったくやりたくないわけでもない。自然にやる流れになればやるし、無理矢理やる流れを生み出そうとは思わない、というだけだ。すべては神のお示しのままに、とでもいった感じか。


 リビングに戻ってフィルを抱きかかえ、硝子戸を開けてウッドデッキに出た。


 鐘の音はまだ聞こえない。


 大晦日は、まだ始まったばかりだ。


 今年もあと少し。


 しかしながら、それは人間が決めた区切りだから、本来は何も特別なものではない。それを証明するように、地球は常に同じ向きに回転していて、ある地点は必ず同じ地点に戻ってくる。永遠にそれを繰り返している。今年というラインを越えて、来年という新しいエリアに移動するわけではない。


 けれども……。


 そういうふうに人間が定めたものは、人間にしか楽しめない。人間にしか理解できないのだから当然だ。


 だから、自分は、自らそれを楽しむ権利を放棄している。


 どうして、そんなことをするのか?


 一般への細やかな抵抗のつもりか?


 いや……。


 ……もう、どうしてなのか分からなかった。


 このままでも良い。


 フィルとずっと一緒なら……。


「三角形の面積を求めるとき、どうしてサインを使うか知っているか?」


 フィルが唐突に言った。


「ううん、そういえば、知らなかった。どうして?」


「三文字だからさ」


 沈黙。


「そうなんだ」


「ああ、そうなんだよ」フィルは話す。「理由なんてそんなものさ。何か面白い理由があるのかもしれない、と期待させておきながら、結局何も理由なんてないことの方が多い。そういう期待を抱いていられる瞬間が、きっと、最も幸せなんだろうな。謎は解明するためにあるんじゃないんだ」


「でも、解明しようとしなければ、楽しむことはできないんじゃないの?」


「お前は、その程度の思考力しか持っていないのか?」


 月夜は首を傾げる。


「どういう意味?」


「謎を沢山抱えるんだ。つまり、謎の収集家になる。とても素敵だと思わないか? この世の中に存在する、ありとあらゆる謎を求めては、それを解明することをせず、一つ一つ丁寧にキャビネットに仕舞っていくんだ。そんなお前を見たやつは、いったいどうしてそんなことをするんだ、と思うだろうね。ほら、また、ここにも、理由という謎に対する好奇心が潜んでいるだろう? だから、そこに存在する謎も、お前のキャビネットの一段に加える。わくわくしないか? 子どものとき、そんなふうに感じたことがあるだろう?」


 月夜は、空を見ながら考える。


 たしかに、そうかもしれない。


 そんな感覚を抱いたことがあった。


 まだ、幼い頃だった。


 けれど、月夜は、そのときにはすでに気づいていた。


 物事に理由など存在しないと……。


「フィルは、自分が死ぬことを通して、そういう謎を作りたかったんだね」月夜は言った。「どうして死んだんだろう、という謎を……」


 フィルは応えない。


「紗矢は、その謎を欲しがっていた?」


 フィルは月夜を見る。


「どうだろうな」彼は言った。「……最後には、あいつまで謎の一つになってしまった」


「うん……。でも、フィルはそれでよかったんでしょう?」


「よかったとは思わない」フィルは話す。「でも、悪くはなかったかもしれない、と思うことはある」


「死んではいけないわけではないから?」


「そうだ」


「生きなくてはいけない、とは思わなかった?」


「そんなことを思ったことはないよ」


「うん……」


「月夜は、どうだ?」


「まだ、死ななくていい」


「何かやりたいことがあるのか?」


「うーん、どうだろう……」


「あるんだな」


「そうかもしれない」


「どんなことだ?」


「謎を、解明すること」


 フィルは笑った。


 街灯のない暗闇の中で、窓から漏れる光だけが宙に浮かんでいる。


 まるで城塞のようだ。


 綺麗だった。

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