第10章 代々
第46話
午後七時。月夜はリビングのテーブルに着いて、フィルの背中を撫でていた。テーブルの上には勉強道具が置いてある。照明は部屋の半分だけ点いていて、暖房器具の電源は入っていなかった。月夜は、暖房の類が嫌いだ。忌み嫌っているわけではないが、あまり、使わない方が良い、と考えている。それは、人工的に暖められた空気に晒されると、彼女は頭痛を引き起こすからだ。冬になると、電車も暖房が点いているが、本当に、多くの人間が、人工的な暖かさを望んでいるのか、と月夜は疑問に思う。統計的にデータを集めてそうした結果が得られたのか、彼女はそれが知りたかった。
「勉強は終わりか?」
黄色い瞳を上に向けて、フィルが言った。
「うん、終わり」
「今日は一日中勉強していたな。お疲れ様」
「疲れてはいない」
「あそう。じゃあ、今の言葉は言わなかったことにしよう」
「フィルは、今日は行く?」
「ああ、もちろん。女の子を、夜に一人で出歩かせるわけにはいかないからな」
「ありがとう」
「素直に感謝されても困る」
「何が?」
「いや、例によって、前言撤回だ」
今日の夜、月夜は紗矢と会う予定だった。紗矢は、今日を最後に、この世界から消える。この世界とは、いったいどの世界のことだろう、と思うことが月夜にはよくある。彼女は「世界」という言葉が好きではない。よく、創作物の重要なシーンで、「この世界を守りたいんだ」みたいなことを主人公が言うが、そんな演出を望んでいる人はいないのではないか、とさえ思う。なんというのか、如何にもわざとらしい。けれど、そんなわざとらしさが良いのかもしれない。現実の世界では、そんな台詞を言う人間がいたら、きっと頭がおかしいと思われるだろう。しかし、それが問題だ。なぜなら、世界をこの地球のことと定義した場合、現在の世界は全然まともなものではないからだ。要するに、実際には世界を守る誰かがいなくてはならない。そういう台詞を聞くと、嫌悪感を示す、というのは、言ってみれば現実の世界に対して諦めを抱いているということだ。そう……。皆、すでに色々なものを諦めている。ポジティブな人間はどこにもいない。
それでも、月夜は、自分が世界を守るようなことはないだろう、と思う。その役割を担うのは、きっと自分ではない。なぜだか分からないがそう感じる。もしかすると、それは一種の逃避かもしれない。それならそれで良かった。そんなふうに逃避するのが、自分という人間なのだ、という言葉を吐いて逃避できるからだ。
「なあ、月夜」
「うん?」
「お前は、自分の将来を捨てるようなことを言ったが、もし、それが、本当に返ってこなかったとしても、あいつのためにそんなことができたか?」
あいつ、というのは、紗矢の左腕が化けた物の怪のことだろう。
月夜は暫く考える。
「なんとも言えないけど、できた可能性は七割、できなかった可能性は三割くらいだと思う」
「ほう、それは大したことだな」
「大したことって、何がどう大したの?」
「普通、人に限らず、あらゆる生き物は、そんな選択はできない」
「それは、どんなデータに基づいて言っているの?」
「一般論だよ。抽象化された結論だ。信憑性は低いが、それでも納得はできるだろう?」
「うん」
「お前は変わっているんだ」フィルは呟いた。「それでも、俺はそんな変な月夜が好きだだが」
自分は、いったいどこが変わっているのだろう、と月夜は考える。
本当の紗矢を救うために、月夜は、紗矢の左腕が化けた物の怪に、自分の将来を与えた。将来というのは、言ってしまえば、彼女がいつか産み出すであろう生命のことだ。今の自分が消えるわけにはいかないから、代わりに自分の将来を与えた。簡単なことだ。しかし、そのアイデアを得るにはかなり時間がかかった。フィルは彼女よりも早い段階で気づいていたみたいだが、彼は、月夜には、それを教えてくれなかった。
きっと、それはフィルの優しさなのだろう、と月夜は思う。彼の言う通り、普通の生き物には、そんな選択はできないのかもしれない。けれど、月夜は自分が普通ではないことを多少は自覚していた。変わっている、という言葉で表現されることもあるが、明確に「変わっている」のではなく、あくまで「普通ではない」といった方が近い。論理的には、前者よりも後者の方が断定のレベルが低い。月夜は、自分のずれに対して、そのくらいのレベルだと考えている。
彼女が自分の将来を与えたことで、紗矢の左手が化けた物の怪は、この世界から消えてしまった。そこにはもちろん理由がある。
けれど……。
もう、そんなことはどうでも良い、と月夜は思う。
すべて終わったことだ。
自分は何も失っていない。
しかし、その物の怪には少し悪いことをしたかもしれない、とも感じる。
自分勝手なことをしてしまった。
すべては、紗矢とフィルと自分を救うためだ。
つまり、エゴ。
結局は、自分は、そんなものを原動力に動くことしかできなかった。
でも、その結果として、紗矢とフィルと自分はきちんと救えた。
では、それで良いではないか。
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