第43話

 ソファに座ったまま、月夜はぼんやりと考える。


 フィルが紗矢の彼氏だと気づいたのは、紗矢に会って暫く経った頃だった。どうして気づいたのか、ということについては述べられない。論理的に関係性を述べることはできるが、月夜は、論理的な思考の結果気づいたのではない。まず初めに、紗矢の彼氏はフィルなのではないか、という閃きがあった。その次に、その閃きを論理的に確かめてみた。彼女がやったのはそれだけだ。だから、閃きがなければ気づかなかった。紗矢は自分に彼氏がいたと言ったが、もしそうであるのなら、その人物に関する詳細な情報を提供するはずだ。けれど、彼女は、彼について、優しかった、くらいの情報しか月夜に与えなかった。それは、説明する必要がないからだ。なぜなら、月夜はフィルを知っている。与えられた条件から考察すれば、紗矢の彼氏はフィルだ、という結論にしか至らない。


 次に、紗矢が屋上から飛び降りた際に、左腕が外れた、という点が重要になってくる。死亡した際に紗矢は物の怪になったが、紗矢の本体と、左腕の二つの個体が生じてしまったために、どちらが物の怪として存続するのか、決めなくてはならなくなった。けれど、当たり前だが、紗矢の左腕は、紗矢そのものではない。ということで、必然的に、物の怪になれるのは紗矢の本体になる。だが、彼女の左腕はそれを許さなかった。左腕は物の怪となってこの世界に残ることを望み、自身と紗矢の本体との立場を入れ替えた。つまり、左腕は文字通りの「物の怪」になったのだ。もう少し簡単に言えば、紗矢の本体は左腕に、そして左腕は紗矢の本体になった。ただし、フィルが言った真の意味での物の怪になれるのは、当然紗矢の本体だけでしかない。


 さて、そうしたときに、紗矢の左腕は、この世界に残り続けるために、とある方法を思いついた。それは、ほかの存在から寿命、つまり時間を奪うことで、この世界に存続する、というものだった。このとき、フィルが役に立つことになる。


 紗矢が屋上から飛び降りたとき、フィルはまだ七つ目の命だった。したがって、紗矢のあとを追ってフィルが飛び降り自殺を遂行しても、彼はまだ死ねない。左腕はフィルの時間を徐々に蝕み、自身がまだこの世界から消えないようにした。しかし、それにも限界がある。フィルの九つ目の命を使い果たしたとき、左腕は、今度は月夜に目をつけた。こうして、月夜は紗矢に化けた左腕と知り合いになり、彼女に時間を奪われることになった。だから、紗矢と一緒にいる間、彼女の体感的な時間は早くなったのだ。それはあくまで主観的なずれとして表れたから、紗矢の傍から離れたとき、周囲との時間の差は補正される。その補正作業が、山の中から外に出たときに行われた。


「ねえ、紗矢」天井を見ながら、月夜は話す。「紗矢は、フィルのために死ぬのは、怖くなかったの?」


 紗矢は月夜を見る。


「怖かったよ。でも、それで彼が死なないのなら、それでもいいかなって思った」


 月夜はフィルを見る。彼は丸まって目を閉じている。


「本当に?」


「本当だよ」紗矢は笑った。「うん……。たしかに、ちょっとまともな発想ではなかったかもしれないね。きっと、彼のことばかり考えていて、自分のことを考える余裕がなかったんだと思うよ。私は、一つのことしか考えられな質だから、それに集中すると、ほかのことが見えなくなっちゃうんだ」


 自分はどうだろう、と月夜は考える。彼女はどちらかといえば反対だ。一つのことに集中しないし、常に俯瞰的に物事を観察しようとする。紗矢と月夜の、どちらの方が優れているか、という話ではない。人それぞれで良い。どちらも、特定の条件下では役に立つ。汎用性の高低についても述べられない。


「苦しくなかった?」


「何が?」


「自分一人で、抱え込むのが」


「うーん、どうかな……。私は、むしろ、それが嬉しかったのかもしれない。彼を独り占めできるのが、堪らなく嬉しかったのかも……」


「そう……」


「月夜には、理解できない?」


「理解はできるよ。でも、共感はできない」


「うん、それでいいと思う。無理に感情をはたらかせる必要はないよ。そういう人もいるんだな、と思ってくれれば、それで充分」


「分かった。じゃあ、そう思っておく」


「月夜には、そんなふうに思える人が、いる?」


「そんなふうに思えるかは、分からない」


「じゃあ、いるんだね」


 月夜は小さく頷いた。


「私みたいなことは、しちゃ駄目だよ」唇に自分の人差し指を当てて、紗矢は話す。「私は、それで満足だったけど、でも、やっぱり、間違えていたと思う。月夜が、もし、私と同じことをしようとしても、私はきっと止めようとしない。でも……。今は、やらない方がいいよ、とだけ伝えておくよ」


 紗矢の顔を見て、月夜は頷いた。それは彼女も同感だった。


「それにしても、よく、あんな決断を、すぐにできたね」紗矢が話す。


「あんな決断、とは?」


「自分の将来を手放す、という決断」


「手放しても、特に問題ない、と分かっていたから、すぐにできた」


「まあ、そうか」


「それで大丈夫だった?」


「うん……。大丈夫かな」


「論理的な結論は、必ず大丈夫なものになる」


「じゃあ、私なんてもう絶望的だね……」


「うん」


「あ、肯定するんだ」


「ううん」

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