第42話

「……フィル、帰ってきて」


 月夜は呟いた。そんなことを言う自分が面白くて、首を絞められたまま、月夜は一人で笑った。


 涙が地面に落ちる。


 目の前の怪物は、もう紗矢の形をしていない。


 怪物は笑っている。


 突如として、怪物は悲痛な声を上げて、月夜の首を締める力を緩めた。


 月夜は、全身に力を込めて、その場から後ろに飛び退く。


 見ると、怪物の首もとに、何かが噛みついていた。


 フィルだ。


「月夜、彼女に時間を与えるんだ」


 フィルが言った。


「……どう、すれば、いいの……?」


 咳き込みながら月夜は尋ねる。怪物は暴れ回り、周囲は嵐のように風が吹き荒んでいる。


「一言、言葉にすればいい。それで終わりだ。こいつは消える。もう、俺たちの前には現れなくなる」


 フィルの声は冷静だ。そう……。フィルには、危機感というものがない。もう死んでいるから、危機を感じる必要がない。


「分かった」月夜は、未来を捨てる覚悟をする。「私の将来を、貴女にあげる」


 次の瞬間、怪物は嘘のように活力を取り戻し、フィルを力いっぱい振り払った。


 フィルは月夜の足もとに着地する。


 怪物は、笑い声を上げながら、消えていった。


 小さな竜巻が、怪物が立っていた場所にできる。


 それも消えて、辺りはあっという間に静かになった。


 月夜はその場に座り込む。全身に力が入らなかった。


 フィルが彼女に近づき、声をかける。


「大丈夫か、月夜」


 月夜は下を向いたまま咳き込んだ。


「……うん、平気……」彼女は顔を上げて、フィルを見た。「フィルは?」


「俺は平気だ」


「どうして、動けるようになったの?」


「お前の時間を、少し貰った」フィルは言った。「勝手なことをして、申し訳ない」


「どのくらい?」


「ほんの二、三分さ」


「……分かった。……いいよ、全然」


 月夜は、自分の右手がまだ温かいことを確認する。


 空間が溶けるように変質し、自分の掌の先に誰かの腕が見えた。


 細い、女性の腕。


 月夜のものよりは幾分しっかりとしていて、力強かった。


 それは、紗矢のなくなった左腕だ。


 ずっと一緒だった。


 今まで、ずっと手を繋いでいた。


 やがて、その左腕は形を変え、一人の少女の姿になった。


「ありがとう、月夜」


「……紗矢?」


「辛い思いをさせて、ごめんね」


「やっと、会えた」


「うん、やっと」


 月夜は軽く微笑む。


 彼女は、そのまま、気を失った。





 目が覚めると、首が若干痛んだ。思いきり絞められたのだから、当然だ。ゆっくりと身体を起こすと、そこは自分の部屋だった。彼女は布団の上で横になっている。誰かが看病をしてくれたらしい。部屋には誰もおらず、今は月夜一人だけだった。フィルの姿もない。彼女は立ち上がってドアの外に出た。


 下に降りて、リビングに入ると、ソファに座っていた少女が振り返った。


 紗矢だった。


 その隣に、フィルも座っている。


「起きた?」にこにこしながら、紗矢が言った。「よかった……。心配したよ、月夜」


 月夜は、紗矢の傍まで歩いていく。時計を見ると、針は午前四時三十分を指していた。そんなに長い時間眠っていたわけではなさそうだ。しかし、一日以上経過している、という可能性もある。


「えっと、紗矢は、平気?」紗矢の隣に座って、月夜は尋ねた。


「うん、平気だよ」紗矢は頷く。「月夜のおかげで、助かったよ」


「助けたつもりはない」


「フィルも、一緒に助けてくれたみたいだし……。本当に、ありがとう」


「うん……」


 月夜は、まだしっかりと状況を呑み込めていなかった。現実に頭がついてこない。


「俺は、本当は消えるはずだったがな」フィルが言った。「まあ、いいさ。もう少し、月夜と話したかったから」


「えっと……。……紗矢は、今は、本当の紗矢?」月夜は尋ねる。


「そうだよ。ずっと一緒だったじゃん、月夜」


「うん、そうだけど……」


「いつから気づいていたの?」


「え? あ、うーんと、具体的なタイミングは、覚えていないけど……」


「フィルが、怪しいと思った?」紗矢はにやにやしながら尋ねる。


「うん……。それは、そう」


 フィルはそっぽを向いた。


「そっか……。……やっぱり、月夜を選んで、正解だったよ」


「どうして、私に頼もうと思ったの?」


「だから、それには、そんなしっかりした理由はないよ」紗矢は話す。「一目見て、ああ、あの子にしようかな、と思っただけで……。私ね、馬鹿なんだけど、直感だけは凄くてさ。ほら、今回も、ちゃんと問題を解決できたでしょう?」


「うん、できた」


「凄いなあ、私って……」


 たしかに、凄い、と月夜は素直に思う。一方で、フィルは欠伸をしているだけで、そんなふうには思っていないみたいだった。


 さっきのは、夢だったのではないか、と月夜は思う。


 もしかしたら、今も……。


 違和感を覚えて、月夜は自分の首に触れる。ガーゼのようなものが貼られていた。傷ができていたから、紗矢が貼ってくれたのかもしれない。

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