第9章 様々
第41話
フィルは月夜の呼びかけに応じない。返事はするが、行動はしなかった。身体が動かないようだ。紗矢の肩の上で、大人しく座っている。黄色い瞳が、闇夜に浮かんで、星のように光っていた。
「早く、私のものになってよ」紗矢が言った。「もう、貴女にはそれしかないんだから。ねえ、分かるでしょう? 何もかも、合理的に考えられる貴女なら、分かるよね?」
月夜は答えない。しかし、思考が停止しているわけではなかった。むしろ、先ほどから、ずっと考え続けている。それは、もちろん、この現状に対する打開策だ。
打開策の内容は、すでに決まっていた。あとは、それをどう伝えるか、ということが重要になる。それで相手を説得できなければ、もうほかに手段は残っていない。紗矢は、内容ではなく、手段ややり方を重視する傾向がある。月夜はそうではなかったが、自分のように、内容ばかりを重視する人間が、少数であることは知っていた。
「紗矢は、私が欲しいの?」
月夜は質問する。
紗矢は、退屈そうに溜息を吐いて、少し首を傾げた。
「別に、月夜が欲しいわけじゃないよ。貴女の時間が欲しいんだ。じゃないと、私は、もう、この世界にいられないからね。消えてしまいたくないの。だから、時間さえ手に入れば、それでいいよ。あとは何もいらない」
「フィルを、先に返して」
「それはできない。分かっている? 貴女は、もう、私の手の中にあるんだよ。私の言う通りにしてくれないと、困るんだ。辛い目には遭わせたくないし」
そう言われることは分かっていた。今は、自分よりも相手の方が有利だ。まずは、この戦況を変えなくてはならない。
「私が、どうやって答えに辿り着いたか、聞きたい、とは思わない?」
「そんなことに、興味はない」
「フィルが、教えてくれたんだよ」
紗矢は黙る。自分の肩に載ったフィルの背を撫で、彼女は薄く笑った。
「そうだろうね。でも、この子は、私のために充分はたらいてくれたよ。もう、私には必要ないから、貴女に返してあげてもいいけど、でも、その前に、貴女が時間を差し出さないと、駄目」
「どうして?」
「どうして? どうしてだって? 理由なんて、ないよ。どうでもいいから、早くしてよ」
「それは、できない」
「そう……。じゃあ、フィルは消えちゃうけど、いいの?」
「それも、許さない」
力を抜いて、紗矢は小さく溜息を吐く。
次の瞬間、彼女の全身が肥大し、黒い巨大な靄のような姿に変化した。
「お前の、時間をよこせ」
紗矢が、もう紗矢のものだと分からない声で、月夜に要求する。
そう……。
彼女は、紗矢ではない。
本物ではないのだ。
月夜はそれを分かっていた。
なぜなら、本物の紗矢は、いつも彼女の傍にいたのだから……。
どこからともなく、突風が吹いてくる。
月夜の髪は靡き、パーカーのフードが風に踊った。
フィルは、肥大化した紗矢の身体に取り込まれて、すでに見えなくなっている。
もう、消えてしまったかもしれない。
けれど、月夜は、そう信じたくなかった。
紗矢の腕が伸び、月夜の首に絡みつく。苦しかったが、彼女は暴れなかった。身体で抵抗しても、この怪物には通じない。なぜなら、紗矢はもう死んでいるからだ。死んでいるのに、時間の制約を受けている。物の怪とは、なんて悲しい存在だろう。そう、まさに、「物」の「怪」……。これは、紗矢自身ではない。ほかの物が化けているのだ。
首を絞められ、月夜は息ができなくなる。目に涙が滲んだ。しかし、それは、彼女がまだ生きている証拠だ。生きていなければ、涙は流れない。生きていなければ、苦しみを感じることもない。
物の怪には、生きることの辛さが分からないだろう。……いや、フィルには分かるかもしれない。彼は、優しかった。死んでも、生きていたときと同じように、苦しみや、楽しさを、分かち合える者もいる。
声が掠れて、空気しか出なかった。
開いた口から、魂が飛び出しそうになる。
月夜は、それを必死に堪える。
それが、紗矢が求めている、彼女の時間だ。
自分に与えられた寿命、つまり時間は、ほかの者に与えることはできない。どれだけ他人のために奉仕しても、時間そのものが他人のものになることはない。その時間を過ごすのは自分だからだ。だから、そんな貴重な私物を、こんな怪物に与えるわけにはいかない。
月夜は、フィルと過ごした時間を思い出す。
それはとても輝いていた。
少なくとも、今はそう見えた。
自分が行き詰まったとき、彼が傍で支えてくれた。
嬉しかった。
所詮、綺麗事だ。
しかし、それで良かった。
綺麗事が、完全に綺麗になってしまえば、それはもう綺麗としか呼べない。
フィル……。
仕組まれていても、良かった。
彼は、それでも、自分に優しくしてくれた。
紗矢と接するのと同じように……。
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