第40話
木々が揺れる。ブランコのチェーンが、きいきいと音を立てた。
ブランコの座面から降りて、フィルが階段を降りていった。速度を上げて、向こうまで駆けていく。階段の先は芝生に覆われた広場だ。鉄製の柵が周囲を囲んでいて、一本だけ立てられた街灯が、ごく狭い範囲を照らし出している。
月夜は、フィルの行方をじっと見つめていた。
やがて、フィルは走るのをやめ、その場に立ち止まる。
上を見ている。
月夜もブランコから降り、フィルがいる方へ歩いていった。
ゆっくりと、彼の傍へ近づいていく。
そのとき、そこに誰かがいるのに気づいた。
背が高い。
「紗矢?」
はっきりと姿が見える距離まで近づいて、月夜は声をかけた。
紗矢はにっこりと笑っている。
紗矢の隣で、フィルは大人しく座っていた。
「どうしたの?」
紗矢は答えない。
「月夜、それ以上近づくな」フィルが低い声で言った。「お前の身に危険が及ぶ」
フィルの言葉を受けて、月夜は言われた通り立ち止まる。
右手を握ったり開いたりした。
「どうしたの? どうして、紗矢がここにいるの?」
紗矢は答えない。その場にしゃがみ込み、彼女はフィルを優しく抱きかかえる。彼は何も抵抗しなかった。
冷たい風が吹き抜ける。
月夜の髪が風に舞った。
短い髪なのに……。
「紗矢?」
「月夜、騙していて、ごめんね」
「何が?」
「もう、気づいたんでしょう?」
「何が?」
「もう、全部ばれちゃったんだもんね」
「何が、ばれてしまったの?」
フィルの黄色い瞳が、月夜の姿を捉えている。
月夜は、フィル瞳を見つめ返して、再び紗矢の表情を確認する。
「もう少し、私の役に立ってほしかっただけど……。……もう、仕方がないよね」
「仕方がない?」
「月夜、それ以上近づくな」動こうとした月夜を見て、フィルが再度注意する。
「フィル、こっちに戻ってきて」月夜は言った。「おいで。一緒に、家に帰ろう」
「意思を奪われた」フィルは話す。「俺は、もう彼女のものだ。お前の指示には従えない」
「どうして?」
「こいつに、操られている」
「戻ってきてよ」
「できないんだ。すまない、月夜」
月夜は息を吐く。
誰かに助けてほしいとは思わなかった。
空は雲に覆われている。
灰色の雲。
星も月も見えない。
クリスマスなのに……。
さっきまでの華やかな雰囲気は、どこに消えてしまったのだろう?
「月夜も、今すぐ私のものになってよ」紗矢が要求した。
「私が、貴女のものになるのは構わないけど、正当な理由と、納得できる根拠がなければ、駄目」
「じゃあ、その二つがあればいいんだね?」
「いいよ」月夜は何の躊躇いもなく頷く。
「分かった。理由は、そうすれば、私に許された時間が増えるから。根拠は、今までそうしてきたからだよ」
「それでは、納得できない」
「どうして? 今、その二つがあればいいって、言ったでしょう?」
「それだけでは欠けている」
「駄目だなあ、月夜は……」
「今まで、フィルを使って、そうしてきたの?」
「そうだよ。当たり前じゃん。使えるものは、すべて使うんだから。逆に、使えないものには、存在する価値はないよ。さっさと消えてしまえばいいのにね、こんなもの」
そう言って、紗矢はフィルを横目で見る。
月夜の表情は変わらない。別に、悲しくも寂しくもなかった。
「フィルが消えないのは、どうして?」
「知らないよ、そんなの」紗矢は笑いながら話す。「何か、特別な理由があるんじゃないの? そんなこと、どうでも良いけど……」
「フィルを、返して」
「いいけど、貴女と引き換えだよ」
「それは、できない」
「大事な恋人を失っても、いいの?」
「恋人じゃない」
「じゃあ、友達? なんでもいいけど、大切なんでしょう?」
「うん、そうだよ」
「早くしないと、消しちゃうよ。それが嫌なら、貴女の時間をちょうだい」
「それは、できない」月夜は同じ言葉を繰り返した。「彼を返されても、私自身が貴女のものになって、彼の恩恵を受けられないのなら、その取り引きには意味がない。だから、できない。しても、意味がない」
「貴女の合理性は、一周回って、ただの馬鹿だよね」
「そう言われることも、よくある」
「月夜、俺のことはどうでもいい。俺はもう死んでいるんだ。お前とは違う。見捨てていい。いや、見捨てるべきだ。それが合理的な選択だ」
「貴方にとっての合理性は、今は問題ではない」
紗矢が笑った。
「月夜、消えて」
消えても良いけど、それは今ではなくても良い、と月夜は思った。
彼女は脚に力を込める。
そうしないと、今にも震えてしまいそうだった。
そう……。
そんなことが起こるのも、すべて、自分が生きているからだ。
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