第39話

 風呂から上がると、時刻は午前二時だった。もう、大半の人間は眠っている。冬休みだから、いつもよりは起きている割合は大きいかもしれない。


 月夜は、部屋着の上にパーカーを着て、家の外に出た。


「どこに行くんだ?」フィルが尋ねる。


「どこかに」月夜は答える。


 夜の住宅街は静かだった。自分が歩く足音だけが、狭い道路に響き渡る。ときどき風が吹いて、低い音を轟かせた。冬の冷たい空気が、彼女の体温を攫っていく。フィルは月夜の隣を歩いていた。電灯の明かりは灯っていない。ずっとそうだった。だから、この一帯は夜になると闇と化す。どこか、知らない世界を冒険しているような気持ちになる。


 昔、押し入れの中から、別の世界へと冒険に出かける物語を読んだことがあった。あれは、幼い自分にとって、衝撃的だった、と月夜は認識している。あんな世界が本当にあるのなら、きっと自分にはよく似合うだろう。自分にはよく似合う、の意味が分からないが、特に根拠もなく、そんな気がする。そこが、自分の唯一の居場所というか、そんな不思議な感覚に囚われるのだ。酷く曖昧な感覚だが、それでも、そうした感覚は、時間が経つほど確信へと変わっていく。


 自分は、物語の主人公にはなれない、と思う。


 主人公は、その世界と完全にマッチしているものだが、自分は、きっと、その一つ上の次元で、ふわふわと浮遊することしかできない、と月夜は感じる。それが、自分の然るべき立場なのだ、とも思えた。しかし、それは決して悪くはない。幽体離脱をして、自由に移動できるようなものだ。全うしなくてはならない役目を持つ主人公と、ある程度の自由が利く脇役なら、どちらの方が魅力的だろう?


 小さな公園に入って、月夜はブランコに腰かけた。遊具があるエリアの下に、芝生の生えたグラウンドがある。その二つのエリアは、石造りの階段で繋がっている。


「そういえば、月夜は、両親はいないのか?」


 月夜の隣のブランコに乗って、フィルが質問した。


「うん、いない」


「どうして?」


「どうしてかは、知らない。顔は、見たことがあるかもしれないけど、覚えていない」


「寂しくないか?」


「寂しくはない」


「お前の両親は、いったいどんなやつだったんだろうな」


「会ったことがないから、分からない」


「想像することはできるだろう?」


 月夜は、想像してみる。自分は女性だから、母親に似ているかもしれない、と思ったが、そんな根拠はない。彼女の髪はあまり長くないが、それは、定期的に切っているからだ。似ているとしたら、髪の長さではなく、輪郭の形とか、背丈とか、仕草とか、そういうものだろう。父親由来のものと、母親由来のものがあるはずだが、どれがどちらに当たるのか、月夜にはまったく見当もつかなかった。


「まず、私には、本当に両親がいたのか、と疑問に思う」


 ブランコを漕ぎながら、月夜は答えた。


「それは、確かだろう。ほかに、人間が生まれる手段は存在しない」


「試験管の中で生まれた、という可能性は?」


「それも、結局は、同じことだろう? 配偶子が二つなければ、生まれないわけだからな」


「フィルには、お母さんと、お父さんがいたの?」


「ああ、いたね。俺は覚えているよ、二人とも」


「もう、いない?」


「当たり前じゃないか」


「そうなの?」


「俺が、九つ目の命を失って、死んでいるんだぞ」


「じゃあ、ご両親は、長生きしたんだね」


「そうだな」


「フィルは、長生きした?」


「したんじゃないかな、それなりには」


「だから、もう充分だったの?」


「……そうかもしれないな」


「紗矢は?」


 フィルは、黄色い瞳を細める。


「……あいつは、分からない」


「分からない?」


「尋ねておけば、よかったかもな」


「うん」


「どうしたんだ?」


「え、何が?」


「何かあったのか?」


「ううん、何も」


「月夜は、長生きするさ」


「それ、前にも聞いたよ」


「もう一度言いたかったんだ」


「了解」


 長生きしても、早死しても、それで人の価値が決まることはない。これから、人間の寿命は伸びるだろう。けれど、だからといって、過去の偉人に比べて、現代の人間の方が価値が高い、とはいえない。それは、等しい時代に生きる人間同士を比べても同じだ。長生きしたからといって、良く生きたことにはならない。

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