第44話

 月夜は、物の怪と化した左腕に、自分の時間を与えることを決断した。自分の時間を与える、というのは、つまり今後自分が何も生み出せなくなる、ということを意味する。もっと言えば、生み出せなくなるのではなく、産み出せなくなる、といった方が正しい。


 しかし……。


 彼女には、確信があった。目の前に紗矢がいることで、そんな突拍子もない決断をしても、何も困らないことが分かっていた。


 暫くの間、二人とも黙る。フィルはもともと話に参加していないから、カウントされない。


 自分は何をしたのだろう、と月夜は考える。


 この数週間は、想像もつかないことばかり起きた。ほんの二十日あまりのことにすぎないが、それでも、月夜は、何ヶ月もかけて旅行したような気分だった。つまり、多少なりとも疲れている。それは瞬間的な疲れではなく、蓄積された疲労みたいだった。そんなふうに感じるのは本当に珍しい。毎日学校に通っている方が余程疲れるのではないか、とさえ思う。


 紗矢を救えたとは思わなかった。いや、思いたくなかった、というべきか。自分は、どちらかというと、彼らの関係に干渉してしまったのだ、と月夜は思う。けれど、少なくとも、物事がプラスの方向には向かったのだから、それで良いといえばそれで良い。問題は、本当にプラスの方向に向かうべきだったのか、ということだ。


 紗矢はそれを望んでいたのか?


 フィルはそれを望んでいたのか?


 そして、自分はそれを望んでいたのか?


 ……分からない。


 他人のことならまだしも、自分のことさえ分からないなんて、どれほど小さな精神なのだろう。


「月夜は、空を飛んでみたい?」


 考え事をしていると、紗矢が唐突に言った。


「空? ……飛んでみたい、とは思わない」


「じゃあ、どうしてみたいの?」


「浮かんでみたい」


「ああ、なるほど。たしかに、それもいいかも」


「紗矢は、もう帰るの?」


「帰るって?」


「もう行くの?」


「行くって?」


「向こうに」


 紗矢は笑った。


「なんだ、分かっていたんだ……。……うん、そうしようかな、と考えていたところ」


「そっか」


「でも、フィルは置いていこうかな」


 月夜は驚いた。


「……どうして?」


「うーん、なんとなく、君に預けておいた方がいいかな、と思ったから」


「それは、よくない」月夜は話す。「二人は、一緒にいるべきだよ。きっと、フィルもそれを望んでいる」


 しかし、フィルは相変わらず目を閉じていて、応えない。


「うん、でも……。やっぱり、月夜に預けるよ。いや、預かってほしい。私が先に行くだけだから、大丈夫だよ。二度と会えなくなるわけじゃないから、心配しないで。少しの間、君の傍で預かってもらうだけ。それなら、いいでしょう?」


 月夜は紗矢の顔を見る。


 紗矢も月夜の顔を見つめた。


「分かった」


「よかった。どうもありがとう」


「うん……」


 フィルは物の怪になれたが、紗矢は物の怪にはなれなかった。その立場は、彼女のなくなった左腕に取られた。左腕は、本物の物の怪になるはずの紗矢を出し抜いて、自ら偽物の物の怪になった。だから、紗矢がこの世界から消える、というのは、言ってみれば当然の結果だ。フィルがこの世界に残る、というのも、別に何も間違っていない。彼は正真正銘の物の怪なのだから。


「大晦日の夜に、向こうに行くよ」紗矢は言った。「あの山の中から……。気が向いたら、会いに来てね。あ、フィルと一緒に過ごすので忙しかったら、来なくてもいいよ。全然、気にしないから、二人で楽しんでね」


「私は、フィルとはそういう関係ではない」


「でも、似合っているよ、月夜」


「どういう意味?」


「なんか、仲の良い相棒同士、みたいな感じがして」


「そうかな」


「うん。私にはそう見える」


「でも、フィルの彼女は、紗矢だよ」


「うーん、そうかなあ……。彼、もう、そんなふうに考えてくれていないかもしなれないし……」


 月夜は、フィルが薄く口元を持ち上げたのを、見逃さなかった。

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