第33話
「ねえ、紗矢」月夜は言った。「一つ訊いてもいい?」
「何?」
「どうして、私にフィルを拾わせたの?」
月夜がそう尋ねると、紗矢は少しだけ驚いたような顔をした。少しだけ驚いた、のではない。少しだけ、驚いたような顔をしたのだ。それほど重要なことではないが、紗矢は、あまり、声を上げて驚くようなタイプではない。
「……フィルが、そう言ったの?」
「そうだよ」
紗矢はフィルを見る。彼は顔を横に向けて、小さく欠伸をした。どうやら、二人の話に付き合う気はないらしい。
「そっか……」
紗矢は、何も否定しなかった。
夜の冷たい空気が流れる。木々が音を立てて揺れ、草原がある方から、吹き込むように風が入り込んできた。寒い。月夜は今日もコートを着ていない。紗矢に関しては、今も半袖のままだった。きっと、もう温度を感じないのだろう。それはそれで、とても良いかもしれない、と月夜は思う。フィルの暖かさを傍で感じられないのは、少しだけ寂しいが……。
「あのね、月夜」
「何?」
「私は、特別君を選ぼうと思ったわけじゃないんだ」
「うん」
「ただ、君のことが見えて、君も私たちが見えるみたいだったから、君を選んだ、というだけ」紗矢は話す。「あとは、君の風貌が気に入ったから、かな……。うん、理由なんて、その程度のものだよ。何か、特別な理由があったわけじゃない。少なくとも、私は、そう考えている」
「あの時間に、あの場所に、フィルを置いて、私を誘ったの?」
「そうだよ」
「どうして、紗矢が、直接、私の所に来なかったの?」
「私は、ここから出られないから」
「どうして?」
「気になるの?」
「気には、ならないけど、訊いておいた方がいいかな、と思った」
「フィルは、移動できる。けれど、私はできない。どうしてか分かる?」
「分からないよ。どうして?」
「フィルは、空間だからだよ」
「空間?」月夜は首を傾げる。
「そう、空間……」紗矢は言った。「空間は、自由に移動できる。そう、移動……。つまりは、物質の位置が変わる、ということだよね。私は、あまり、そういう学問に詳しくないから、よくは分からないけど……」
「それが、どうかしたの?」
「それが、彼が移動できる理由だよ」
「どういうこと?」
「どういうことだと思う?」
月夜は、一度黙って考える。
紗矢の説明は、少々おかしいところがある、と彼女は思った。まず、空間は、自由に移動できる、というのは、「空間」が主語なのではない。空間の中を、「私」あるいは「誰か」が、自由に移動できる、という意味だ。だから、普通、空間が、主体的に、移動できる、という捉え方はしない。しかし、紗矢はそれを混同している。いや、意図的にそうしている、と考えた方が良いかもしれない。これは、一種の言葉遊びだ。そんなふうに、言い包めようと思えば、どんなことでも、適当に言い包められるのだ。人間が持ち合わせる論理とは、そういうものだ。
「月夜は、フィルと一緒にいてくれる? それとも、もう一緒にいてくれない?」
「私は、いいよ。でも、紗矢は、それでいいの?」
紗矢は月夜を見る。
月夜も紗矢を見た。
数秒間、視線が交錯する。
「私は、それでいい」やがて、月夜から目を逸らして、紗矢は言った。「それでいいよ」
月夜は、前を向いたまま答える。
「分かった」
「何が?」
「紗矢の考えを、承認した、という意味」
「うん……。月夜なら、そう言うと思ったよ」
「予想していたの?」
「予想、というほどではないけど、なんとなく、そんな気がしていた」
「紗矢、笑わないの?」
「どういう意味?」
「嬉しくないの?」
「どういう意味?」
沈黙。
フィルは退屈そうだ。その通り、退屈なのだろう。人間の少女らが、何やら真剣そうなやり取りをしている、くらいに考えているに違いない。彼は、どんなことでも他人事だ。自分が関与していないと思っている。しかし、月夜は、彼のそんな態度が好きだった。自分もそんなふうに生きられたら良い、と素直に思う。思いは、常に素直だ、と考えたことがある。けれど、素直は、常に思いではない。どうして、そんなことを考えるのか? 考える必要がないのに、それでも考えてしまうのは、どうしてだろう?
紗矢は、身を乗り出して、月夜を軽く抱きしめた。
「何?」
月夜は尋ねる。
「ごめんね……」
「何が?」
「ううん、なんでもない」
「うん……」
「月夜、温かいね」
「そう?」
「うん。私なんかよりずっと」
「私は、よく、冷たい、と言われる」
「たぶん、私が体温を持たないから、今は月夜の方が温かいんだよ」
「なるほど」
「何が、なるほどなの?」
「特に、意味のない、相槌」
「月夜は、素直だね」
「そうかな」
「そうだよ。……私も、もっと素直になりたかった」
「誰に対して?」
「自分に対して」
「それは、難しいよ」
「難しかったら、できなくても、いいかな?」
「いい、と、思う」
「ありがとう」
「なぜ、感謝するの?」
「なぜだと思う?」
月夜には、分からなかった。
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