第32話

 石造りの階段を上る。山の中が暗いのは分かっていたから、月夜は懐中電灯を持ってきていた。それで足もとを照らしながら、二人は先へと進む。フィルは、今は月夜の手提げ鞄の中だった。


 山道は若干湿っていた。朝の霧がまだ残っているのかもしれない。草の香りと、土の香りが混ざって、自然をすぐ傍に感じた。自然とは何か、と訊かれても、たぶん誰も答えられないだろう。もちろん、答えることに価値があるとはいえない。答えない、というのが、最も懸命な対応かもしれない。


 静かだった。


 今日は、鳥の鳴き声は聞こえない。


 やがて、道が開けて、神社がある広場に到着した。


 紗矢は、石段の上に座っていた。


「月夜」二人に気づいて、紗矢が声を出しながら立ち上がった。「ちょっと、月夜……」


「何?」


「もう……」


「どうしたの?」


「どうしたの、じゃないじゃん」紗矢は月夜の袖を引いて、自分の隣に座らせる。「もう、どうして、昨日の内に来てくれなかったの?」


「どうして、と訊かれても、答えられない」


「ずるい」


「何が?」


「まったく、酷いなあ……」


 たしかに、酷いかもしれないな、と月夜は思った。その通り、彼女は酷いことをした。もう、サンタクロースは、自分の国に帰ってしまったに違いない。


「メリークリスマス」月夜は言った。


「もう、遅いよう」紗矢が口を尖らせる。「プレゼント、もう、もらえないよ……」


「ごめんね」


「それ、本気で謝っている?」笑いながら、紗矢は月夜の顔を覗き込む。「でも、まあ、いいよ。なんか、月夜って発想が飛躍しているよね」


「そう?」


「うん……。あと、危機感がない、という感じもする」


「どうして、危機感が必要なの?」


「だって、その方が安全じゃない?」


「そうかもしれないけど、危機感は、ない方が、いいと思うよ」


「まあね」


「便箋と、封筒を持ってきたけど、書く?」


「今から?」紗矢は笑った。「今から書いても、もう、誰にも届かないじゃん」


「来年の分のお願いを、今年の内にしておく」


「ああ、なるほど……」


「書く?」


「うーん、どうしようかなあ……」紗矢は自身の顎に人差し指を当てて、考える。「……うん、でも、せっかくだから、書こう」


「紗矢は、何が欲しいの?」


「プレゼント?」


「うん」


「内緒」


「内緒が、欲しいの?」


「違うよ」


 持ってきたクッキーと、麦茶を口に含みながら、二人はサンタクロースに向けて手紙を書いた。もちろん、飲食をするのは月夜だけだ。この表現は、貴重といえば貴重だろう。普段飲食をしない彼女が、だけ、と限定を伴って、飲食をすると描写されている。なかなかお目にかかれる表現ではない。


 月夜は、サンタクロースへの手紙に、時間を下さい、と書いた。ほかに何も思いつかなかったからだ。彼女には、基本的に、欲しいものがない。何も欲しくないわけではないが、特別これが欲しい、と感じたことはなかった。だから、普通なら手に入らない最も有益なものとして、時間を選んだ。理由はそれだけだ。大した理由ではない。


 紗矢は、幸せが欲しい、と書いていた。彼女らしいといえば彼女らしい。何が彼女を彼女たらしめるのか、それは分からない。けれど、その文面を見たとき、月夜はなぜかそう感じた。紗矢が、死ぬ前に、幸せを掴めたのか、掴めなかったのか、月夜には分からない。この場合は、どちらでも良い、とは言い切れない。それは、自分が彼女の友達だからかもしれない、と月夜はふと思う。そんなことを思うのは、しかし本当に珍しかった。自分ではない誰かを、自分と深い関係があると感じるのは、月夜にはあまりないことだ。


 二人は、書き終えた便箋を丁寧に畳んで、封筒の中に仕舞った。月夜は、紗矢が書いたものを預かることにした。ここに置いておくわけにはいかない、と紗矢が自分からそうするように頼んだからだ。月夜は、特に断る理由がなかったから、紗矢のお願いを受け入れた。


「ああ、クリスマスか……。今頃、皆、恋人同士で、何か楽しいことでもやっているんだろうな……」紗矢が呟く。


「何か、楽しいこと、とは?」


「一緒にソファに座りながら、映画を観たりとか、食事をしながら愛を語り合ったりとか、あとは、プレゼントの交換会を開いたりとか、じゃないの?」


「紗矢は、そういうことがしたいの?」


「うーん、どうかなあ……。したいような、しなくてもいいような……」


「俺とやるのは、嫌らしいからな」月夜の膝の上にいるフィルが、低い声で話す。


「別に、嫌じゃないけどさあ……。今ひとつ、ぱっとしない感じだよね」


「失礼だな」


 月夜はフィルの頭を撫でる。彼は、今は大人しくしている。もっとも、彼は普段から大人しい。


「月夜は、こんな所にいていいの?」


「ん? こんな所って?」


「私なんかと、こんな場所で、貴重な時間を消費していていいのか、という質問だよ」


「そうしてほしいって、紗矢が言ったんだよ」


「あ、そうか……。……もしかして、無理させちゃったかな? ……ごめんね」


「どうして、謝るの?」


「なんか、悪いことしたかな、と思って」


「よく、分からないけど……」


「ほかに、用事とかなかった?」


「用事は、ない」月夜は話す。「紗矢と、一緒にいるのは、楽しいよ」


「本当に?」紗矢は表情を明るくする。


「うん」


「よかったあ……。なんか、嫌われちゃうかもしれないって、心配していたんだ、私……」


「どうして、私が、紗矢を嫌うの?」


「うん、なんとなく……」


「なんとなくで、誰かを嫌う人がいるの?」


「いるかもね、どこかには」


「月夜は、ほかのやつとは、感覚がずれているからな」フィルが言った。「本人は、自覚していないみたいだが」


「自覚?」月夜は首を傾げる。


「ほらな」


「ほらな?」


「なんだ? 何か気に障ったのか?」


「フィルって、月夜と一緒のときも、いつもこんな感じなの?」紗矢が尋ねる。


「うん、そうだよ」


「いや、違うね」フィルが断言する。「お前と一緒にいるときだけだ、俺が、こんな無愛想なのは」


「やっぱり……」紗矢が呟いた。


「そうなの?」月夜は首の角度を大きくする。


「ああ、そうだ」フィルは薄く笑い、軽くウインクした。「俺は、いい子だからな」


 いい子とは、私のことかな、と月夜は思った。

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