第30話

 魔法について考えた。魔法が存在するとしたら、それを使えるのは、どんな人間だろう? 月夜みたいに、論理的な思考をする人間か? それとも、幼児みたいに、とびきり優れた感性を持ち合わせた、紗矢のような人間だろうか?


 魔法を使えたら、彼女たちは、何をするだろう?


 月夜は、きっと、魔法を使わないだろう。使っても、誰も救われない、とすぐに気づくはずだ。魔法とは、本来儚いものだ。すべての人々の願いを叶えるものではない。


 紗矢なら、たぶん、何も考えないでそれを使う。まずは、自分のために。そして、次に、ほかの人のために。箒に跨って、夜の街を駆けるかもしれない。それはそれで面白い。ただし、彼女はすぐに転ぶから、今度は箒の上から転落するかもしれない。


 三十分くらいして、フィルは部屋に戻った。月夜はまだ勉強している。先ほどと同じ教科かは分からなかった。同じことを、こんなに長時間続けられるのは、一種の才能だ、と彼は思う。月夜本人がどう思っているのかは分からないが、少なくとも、彼はそう思った。フィルは、同じことを繰り返すと、すぐに飽きる。だから、毎日違うことをしたい、と感じる。月夜と出会ってから、多少は日常に変化があった気がした。このまま、彼女とずっと一緒にいれば、それなりに面白い日々が送れるかもしれない。


 インターフォンが鳴った。


 月夜は、顔を上げて、部屋の入り口を見る。それから、ペンを机の上に置いて立ち上がった。


「客か?」月夜の肩に載りながら、フィルは尋ねる。


 月夜は答えずに、黙って首を傾げた。


 基本的に、彼女の家には、誰も訪ねてこない。それは、彼女に友人がいないからだ。通販を利用することも、出前をとることもない。回覧板なら、ポストに入れれば済む話だから、わざわざインターフォンを押す者はいない。


 誰だろう、と想像しながら、月夜は階段を下りる。


 靴を履いて、玄関のドアを開けた。


 前方を確認してから、左側を見る。ドアは、彼女から見て右側に向かって開くから、そちらは死角になる。だから、顔をドアの向こう側に出して、そちらも確認した。しかし、誰の姿も見えない。インターフォンは、ドアのすぐ傍にあるから、ここにいないとなれば、インターフォンを押したあとで移動した、ということになる。悪戯だろうか、と月夜は考える。


 そのまま、ドアを閉めて、彼女は家の中に戻る。


「誰もいないな」フィルが言った。「まあ、そういうこともあるだろう」


「そういうことって、どういうこと?」


「悪戯をする人間もいる、ということさ」


「どうして、そんなことをするの?」


「そうしたい気分なんだよ。もしかすると、子どもかもしれない。許してやれ、ちょっと魔が差しただけだ」


「うん。もちろん、それくらいなら、全然、構わないけど」


「全然構わない、というのは、少し違うと思うが」


 ドアがノックされた。


 月夜は後ろを振り返る。フィルもそちらを凝視した。今度は、確実だった。確実だった、の意味が分からないが、相手がすぐそこにいると分かった、という感じか。


 月夜は、再び、ドアを開ける。


 少しだけ、緊張した。


 しかし、やはり、そこには誰もいなかった。左を見ても、顔を出してドアの右側を見ても、誰の姿もない。


 透明人間かもしれない。


 誰もいないはずがなかった。ドアがノックされて、月夜がそれを開けるまで、五秒くらいしかかからなかったのだ。その間に隠れられるような場所は、玄関の近くにはない。やはり、少しおかしい。聞き間違い、という可能性はない。二回も呼び出されたのだから、誰かが故意にやった、と考えるのが自然だ。しかし、その方法が分からない。


「月夜、ドアを閉めるんだ」フィルが耳もとで囁く。


「でも、誰か、うちに用があるのかもしれない」


 そう言いながら、月夜は、さすがにそれはありえないか、と自分でも思った。


「真っ当な用があるなら、こんなことはしないさ。何か、後ろめたいことがあるんだ。今すぐ、ドアを閉めた方がいい」


「うん……」


 月夜は、言われた通り、ドアを閉める。


 リビングに入って、暫くの間、硝子戸から外の様子を観察していたが、結局誰も現れなかった。いったい、今のはなんだったのだろう、と考えてみたが、月夜に思い当たる節はない。


 けれど……。


「気にしないで、勉強をしよう」フィルが言った。


 彼は、月夜の肩から飛び降りて、床に着地する。


「君も、勉強するの?」


「大人しく、勉強していた方がいい」


「大人しくない状態で、勉強なんて、できないよ」


「そんな、凝った回答を期待しているわけじゃないんだ」


 階段を上って、二人は自室へと戻る。


 途中で後ろを振り返って、もう一度玄関の方に目を向けてみたが、ドアが再びノックされることはなかった。

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