第29話
月夜は、フィルを抱きかかえて、ソファから立ち上がる。そのまま二階に移動し、自室の机の前にある椅子に座った。
「勉強するのか?」
「うん」
「どうして、勉強するんだ?」
「フィルも、質問が好きなんだね」
「別に好きじゃないさ」
「そう?」
「ああ」
参考書を広げて、ペンを持つ。スタンドライトの電源を入れた。ページに書いてある問題を見て、ノートに解答を書く。終わったら丸つけをして、間違えたところをもう一度解き直す。こんなに簡単な作業が、ほかにあるだろうか、と月夜は思う。
フィルは、暇だったから、月夜の部屋の窓から外に出て、屋根に上がった。
空気は澄んでいるが、とても冷たい。月夜は、どうやら、家にいる間、あまり暖房をつけないようだ。猫の彼にとっては、あまり好ましい環境ではない。暖房の纏わりつくような暖かさが、月夜はあまり好きではないのかもしれない。頭が痛くなったりするのだろうか。
目の前に山脈があって、その向こう側は見えなかった。左手には、ずっと住宅街が続いている。紗矢が住む山は右手にあって、ときどき鳥の鳴き声が聞こえてきた。こんなに寒くても、声を張り上げる動物がいる。自分と同じように、暇なのだろうな、とフィルは考える。
月夜は、もう気づいているのだ、と彼は思った。考えたのではない。つまり、論理的な思考をして、そうした結論に至ったのではない、という意味だ。なんとなく、そう思った。彼女なら、気づいてもおかしくはない、と感じる。そう……。それは、信頼と、少し似ている感覚だ。根拠もなしに、そんなふうに思うのだから……。そもそも、思うのに、根拠は必要ないのかもしれない。
紗矢のことを考えた。彼女は、今、何をしているだろう? あの石段に座って、ずっと居眠りをしているのか。
フィルは、紗矢が好きだった。それは、月夜に感じるのとは、多少違った好意だ。しかし、どちらとも恋愛感情ではない。そもそも、猫が人間と子孫を残すことはできないのだから、恋愛感情、というものが生じるはずがない。けれども、それ以前に、恋愛感情と、単純な好意の間に、違いがあるのか、とも思う。どうして、その二つを区別しなくてはならないのか? そんなことをしなければ、きっと人間の世界はもっと豊かになるだろう、と彼は思う。しかし、次の瞬間には、自分には関係のないことだ、とも思った。いつもそうだ。だから、彼は提案をしない。この世界に存在する、ありとあらゆる事柄が、最終的には、自分とは関係がない、と言い切れる。たぶん、あまり素晴らしいことではないだろう。しかし、フィルは、それが、自分らしさだと思っていた。自分らしさ……。いつ使っても、不思議な言葉だ。
恋愛感情ではないとしても、二人に対する好意は確かに存在する。そして、フィルは、その内紗矢に対するものが、月夜に対するものより少し強いことを、自覚していた。自覚、という言い方は違うかもしれない。そう思いたいのだ。そう……。紗矢と月夜のどちらかを選ばなくてはならない、といった、なんともロマンチック、かつ、なんともミラキュラスな場面に遭遇したら、自分は、きっと、紗矢を選ぶだろう、とフィルは思う。そこにも、確固とした理由はない。しかし、それで良い、と彼は考える。
屋根の上を歩いて、少し運動した。もしかすると、足音が響いて、月夜の集中を欠くかもしれない。
自分が、月夜に拾われた理由……。
月夜が、自分を拾った理由……。
どちらも、どうでも良いことだ。
気にするようなことではない。
でも、訊かれたら、答えなくてはならない。
隠す理由がないから、答えるのだ。
しかし、自分にはそれができない。だから、紗矢に代わりに答えさせようとしている。
いや、それも違うか……。そうするように言ったのは、紗矢なのだから。
そうやって、いつも、自分は逃げている。なんとも酷いやつだ、とフィルは感じる。
けれど、やはり、それで良い。
「フィル?」
部屋の中から、月夜の声が聞こえた。
「なんだ?」フィルは返事をする。
「寒くない?」
「ああ、全然」
「そう」
「もう、終わったのか?」
「いや、まだ」
「俺はここにいる。心配しないでくれ」
「心配は、していない」
「じゃあ、何をしているんだ?」
「勉強」
そう言って、月夜は黙った。
フィルは一人で笑いを堪える。
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