第25話
太陽が見えないから、時間の経過が分かりにくい。月夜が腕時計を見ると、いつの間にか三十分が経過していた。しかし、それは彼女の体感とずれている。やはり、この場所に来ると、時間の感覚にずれが生じる。時間が速く進んでいるのか、自分の体感が早くなるのか分からないが、何らかの異常が発生しているのは確かだ。
月夜は、それを紗矢に尋ねようか、と少し考えたが、今はまだやめておいた。二回確認しただけでは、経験として充分とはいえない。データとして不足している。
月夜は、暫くの間、時計の文字盤を眺めていたが、いつもより速く針が進むことはなかった。つまり、一度時計を見て、次に確認したときに、時間の差が生じている可能性が高い。客観的な時間の流れではなく、主観的な時間の感覚に問題が起きるようだ。
「ねえ、月夜」紗矢が言った。「今度、ここで、クリスマスパーティーをしようよ」
月夜は彼女の方を見る。
「いいよ」
「やったね。じゃあ、何をしようか? ケーキとか、買ってきてもいいよ。私は食べられないけど」
「私も、食べないから、いらない」
「何か、ゲームでもする?」
「ビンゴとか?」
「そうそう。いいね。あ、でも、二人でやってもしょうがないか」
「紗矢は、何がしたいの?」
「私? うーん、そうだなあ……。特に、これといった候補はないけど……。……あ、じゃあ、サンタクロースに手紙を書く、というのはどう?」
「書いて、送るの?」
「いや、書くだけ」紗矢は笑った。「送るって、どこに送るつもり?」
「サンタクロースの国」
「それ、どこ?」
「分からないけど、封筒に、サンタクロースの国、と書いたら、届くと思う」
紗矢は真剣な表情になる。
「送ったことあるの?」
「ないよ」
紗矢は笑った。
「なんだあ……。まあ、書くだけでも、雰囲気出て、楽しいかもね。あ、じゃあ、便箋と、封筒を、持ってきてくれる?」
「分かった」
「あと、サンタクロースの帽子とか、あったら持ってきてよ」
「紗矢が、サンタクロースになるの?」
「いやいや、被るだけ」
「馴鹿は、必要?」
「それ、冗談?」紗矢は声を出して笑う。「月夜、けっこう面白いね」
「何が?」
「うーん、精神的に」
「精神?」
「あ、聖心、の方がいいか」
話題がなくなって、二人は黙り込む。話すことがなければ、何も話さなければ良い。無理に言葉を発するのはエネルギーの無駄だ。少なくとも、月夜はそう考えている。
人間は、話すとき、脳に記憶されている言葉を口にする。反対にいえば、脳に記憶されていない言葉は口にできない。しかしながら、もし、自分の頭の上にある雲が、電子的な「クラウド」だったとしたらどうだろう? すべての人の記憶がクラウドに保存され、他人の記憶まで参照できるようになれば、人間は自分の知らない記憶を取り出すことができるようになる。知らない記憶というよりも、すべてを知っている、といった方が近い。何かを発想するには、様々な種類の情報を脳内に取り入れなくてはならないが、脳がクラウドに接続された状態になれば、人間は無限の発想ができるようになる。
しかし、それは本当に発想と呼べるだろうか、と月夜は考える。
すべての人が他人の記憶を参照できるということは、言い換えれば、個々の人間としての価値が失われる、ということだ。
人間は、そんな自由を求めているだろうか?
人間が、人間という形を失ったとき、人間は人間として自由にはなれない。
それでも、人間の枠組みを越えて自由になりたいと思うのは、どうしてだろう?
「それにしても、月夜は本当に格好良いね」
遠くの方で紗矢の声が聞こえたが、月夜はそれを無視した。
「うん……」
しかし、口は勝手に動く。
「どうしたら、そんなふうに、素早く行動できるようになるの?」
それは、人はどうして生きているのか、という質問と同じだ、と月夜は思う。
どうして人は生きているのか?
そもそも、人は生きることを望んでいるのか?
死ぬのが怖いのではない。
苦しい思いをしたくない。ただそれだけのことだ。
それなら、苦しまずに死ねるのなら、人は今すぐに死にたがるだろうか?
分からない……。
たとえ苦しくても、自分は、死のうと思えばいつでも死ねる。
一瞬だけ苦しくても、死んでしまえば、その苦しみさえ忘れてしまう。
いや、忘れるのではない。
感覚は消えてなくなる。
主観もなくなってしまう。
すべてが客観と化す。
しかし、客観とはなんだろう?
客観的に自分を観察しているとき、その観察をしているのは、主観ではないのか?
そう……。
生き物は、永遠に客観的な視点を手に入れられない。
だから、いつまでも自分を可愛がることしかできないのだ。
「素早い、とは?」口を動かして、月夜は尋ねる。
「うん、なんていうか、行動に無駄がないな、と思って」
「そうかな」
「うん……。さては、月夜、自分のことが分かっていないな?」
紗矢の笑い声。
本当に自分を分かっていないのは、貴女の方だ、と月夜は叫びたくなる。
けれど、声は出なかった。
いつものことだ。
自分にはそんなことはできない。
「ねえ、紗矢」
「何?」
「紗矢の彼氏は、どこに行ったの?」
「え?」
「彼氏は、どこに行ったの?」
「……どうしたの?」
「どうして、いなくなってしまったの?」
「月夜?」
「いなくなったのは、どうして?」
「……大丈夫? ねえ、こっちを見て」
「死にたかった?」
「……月夜?」
「生きたかった?」
「月夜!」
気がつくと、紗矢の両手が月夜の肩に触れていた。
月夜の肩を掴んで、紗矢は険しい表情をしている。
「……何?」月夜は首を傾げる。
「大丈夫? なんか、具合が悪そうだけど……」
ああ、たしかに……。
朦朧としているな、と月夜は感じる。
石段から立ち上がり、肺に溜まっていた空気を吐き出す。紗矢の腕を優しく掴んで、負荷がかからないように静かに下ろした。それから、自分のお尻の裏を叩いて、捲れていた服の袖を直す。
「またね、紗矢」月夜は言った。「もう、帰る」
「え、どうして?」
月夜は歩き出す。
紗矢は引き止めなかった。
風が吹いて、木々が微かにざわめく。
この広場と、向こう側を区切る道の入り口に、黄色い目をした小さな黒猫が座っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます