第22話

 乾燥した心地の良い風が、二人の間を通り抜ける。そこに、見えない壁があるみたいだった。壁だなんて、ありきたりな表現だな、と月夜は考える。しかし、そういった何らかの距離が、二人の間に存在するのは間違いない。それは、同じ人間同士でもいえることだ。紗矢が人間ではない、ということとは関係がない。


「月夜は、ほかに予定はないの?」紗矢はフィルの背を撫でる。


「予定は、ない。朝に、少し、勉強をしてきた」


「月夜、いくつ?」


「たぶん、十七」


「たぶんって、どういうこと?」


「誕生日が、分からないから、もしかすると、十六かもしれない」


「ああ、そういうこと……」


「紗矢は?」


「私は、うーん、なんて答えたらいいのかな……。まあ、でも、これ以上年をとらない、と考えれば、月夜と同い年だよ」


「いつ、死んだの?」月夜はダイレクトな質問をする。


「よく、そんなふうに訊けるね」案の定、紗矢に指摘された。「でも、いいなあ、そういうさばさばした感じ……。いや、さばさば、というのは、悪口じゃなくてさ、なんか、格好良いな、と思ってね。そういう女の子って、憧れるよね……。あ、そんなふうに思うのは、私だけかもしれないけど」


「うん……」


 沈黙。


「もう、何十年も前だよ」紗矢は月夜の質問に答えた。「具体的な年数は、覚えていないけど……」


「ねえ、紗矢」


「何?」


「どうして、紗矢は、死のうと思ったの?」


 月夜は紗矢の顔をじっと見つめる。紗矢は、今は笑っていなかった。けれど、不快そうではない。感情的に見えても、紗矢には論理的な思考力も備わっているようだ。


「前に、言わなかった?」


「言ったけど、もう少し、詳しく聞きたい、と思った」


「聞きたい、ということは、それは月夜の欲なんだね?」


「そう」


「素直でよろしい」紗矢は満足気に頷く。「うーん、どうやって説明したらいいかなあ……」


「でも、今日じゃなくても、いいよ」


「え? いやいや、そういうわけにいかないじゃん、タイミング的に……」


「タイミング、とは?」


「そういう話の流れだったってこと」


「うん」


 フィルは相変わらず黙っている。紗矢の前では無口な猫を装っているのか、と月夜は思った。


 風が吹いて、周囲の木々が揺れる。背後にある、賽銭箱の上に吊るされた鐘が、少しだけ音を鳴らした。雰囲気が出ていて、良いな、と月夜は感じる。和風ではなく、話風、という感じだった(意味が通じない可能性が高い)。


「彼はね、とってもいい人だったんだよ」紗矢は言った。「うーん、なんて言ったらいいのかな……。なんか、見た目は優しそうに見えないんだけど、でも、その、深いところに優しさが潜んでいる、というか……。私みたいに、溌剌とした感じじゃなかったけど、でも、心の内は明るくて、健気で、可愛かった」


 月夜は黙って頷く。


「でもね、彼は、生きることを望んでいなかった。生きるのを苦痛に感じていた。何事にも諦めたような態度を貫いて、いつ死んでもいい、と考えていた。そう……。いつ、死んでも、いい……。本当は、いつ死んでもいいなら、今死ななくてもいいはずなのに、彼は、もう、死にたいって言っていた……。どうして、そんなふうに考えるんだろう? 生きるのが嫌なんじゃなくて、死ぬことに憧れてしまう……。私には、そんなふうに見えた」


 フィルが欠伸を連発する。


 月夜は、紗矢の膝の上からフィルを持ち上げて、自分の両腕に抱えた。


 彼は満足そうな顔をした。


「そして、ある日、屋上で話していたとき、彼は死のうとした」紗矢は言った。「暑い、夏の夕方のことだった。焼きつくコンクリート……。あのときのことは、全部覚えている。柵を越えて、屋上の淵に立って、彼は私の方を見て薄く笑った。私は……。……自分でも、どうかしていたと思う。落ちそうになる彼を、必死に抱き上げて、代わりに、死んであげるから、死なないでって叫んで、落っこちた。とても、不思議な感覚だったよ。ああ、死ぬのって、気持ちが良いんだなって思った。魂が解放される感じ、とでも言えばいいのかな……。地面に当たる瞬間のことは、覚えていない。でも、一瞬だけ、アスファルトに触れた、という感覚はあったよ。痛くはなかった。きっと、もう、痛みを感じるほどの余裕がなかったんだろうね……。左腕がないことに気づいたけど、ああ、とれたんだ、としか思わなかった。だって、あんなに高い所から落ちたんだから、当たり前だよね、そんなの。頭から落ちなかったから、それを、見ることが、なんとかできたんだと思う。遠くの方に、彼の顔が見えた。表情は、よく分からなかったけど、驚いていたと思うな。驚かせることができて、よかった、とも思ったよ。うん……。これで、彼も、死なないはずだ、と確信した。……でも、彼は死んだ」


「どうして、彼が死んだ、ということが、分かったの?」


「彼に、会ったからだよ」


「どうやって?」


「死んだ、彼に、会った」紗矢は話す。「君が、今、私と話しているみたいに、会って、話した」


「今も、会って、話すことがあるの?」


「まあ、ときどきね」紗矢は言った。「でも、彼は、恥ずかしがりやでさ、なかなか素直に話そうとしてくれなくて……。……私を死なせたことを、後悔しているみたいなんだ」


「もう、取り返しは、つかない?」


「そうだね」


「紗矢も、後悔している?」


「うーん、どうかな……。もう、後悔しても、しょうがないかな、と思うよ。でも、どちらか一人が死ぬよりは、よかったと思う。本当は、どちらも死なないのが一番よかったけど、それは、達成できなかったから、その次に最良の手段として、二人で死んだ。そう……。きっと、彼も、同じように考えていると思う」

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