第20話

 風呂から上がって、二人は再びリビングに移動する。ソファに座って、月夜は本を読み始めた。フィルは彼女の膝の上で丸まっている。どうやら、物の怪も睡眠はとるらしい。健康に気を遣っても、それでどうにかなるわけではないのに、どうして眠るんだろう、と月夜は考えた。まあ、別に、どうでも良い。眠りたいから、眠っているのだろう、ということで納得しておく。


 月夜が読んでいるのは、今日は古典ではなく、ラブストーリーだった。彼女は、あまり、この手の作品を読んだことがない。こういうものを読むと、どきどきする、という人がいるが、どきどきして、それでどうするのだろう、というのが月夜の正直な感想だった。どきどきするのは、あまり良いことではない。できるなら平穏な方が良い。それに、そこに書かれているのは、自分が経験したのではない、誰かの恋愛模様だ。普通、そういったものを間近で見ると、嫌悪感を示すのが人間という生き物だ。教室で楽しそうに話している恋人を見ると、嫉妬するような連中が、どうして、幻想の中の恋人は容認できるのだろう、と月夜は酷く不思議に思う。はっきりいって、意味が分からない。現実で体験できないことを、幻想の世界で体験したい、ということかもしれない。それならそれで良いが、現実を変える努力をした方が、最終的にはプラスになるだろう。


 そもそも、プラスになることを望んでいるのではないのかもしれない。


 それは……。


 自分も同じかもしれない、と思った。


 たとえば、勉強は明らかにプラスになる行為だが、それに反して、いつ死んでも良い、と考えるのは、明らかにマイナスの行為である。彼女は、いつ死んでも良い、と考えながら、毎日一生懸命勉強している(本人に、一生懸命、という意識はない)。どうして、こんなふうに矛盾したことをするのか? それは、自分の知らないところで、そのどちらかを諦めているからではないのか? いや、自分の知らないところで、というのはおかしい。きっと、自分はすでにそれに気づいている。気づいているのに、気づいていないふりをしているのだ。


 なんて、卑怯な生き物だろう……。


 いや、ほかの人間は、そうではないのかもしれない。


 卑怯なのは、自分だけだ、と月夜は思う。


 フィルを置いて、彼女は一人でベランダに出る。正確には、そこはベランダではなかった。ウッドデッキといった方が近い。しかし、ウッドデッキがどういうものなのか、月夜は詳しく知らないから、もしかすると、ウッドデッキですらないかもしれない。とにかく、木造の人工物であることは確かだ。


 風呂から出たばかりだから、それほど寒くは感じないが、ここに長時間いたら、きっと湯冷めをする。それでも、冬の乾燥した空気が心地良くて、月夜は暫くここにいようと思った。


 星が見える。周囲にある住宅では、まだ窓に明かりが灯っていた。きっと、家族揃って夕飯を食べているのだろう。とても微笑ましい光景だから、月夜もなんだか嬉しい気持ちになる。感情は、そんなふうに伝染する。どうして、神様は、人が集団で生きるようにしたのだろう、と月夜は不思議に思う。いや、それは人間に限った話ではないかもしれない。ありとあらゆる生き物は、単体では生きていけない。そして、すべての生き物は、環境という目に見えないものに支配されている。それが、地球で生きる生命の、定めというものだ。定めなんていうと、少々馬鹿馬鹿しく聞こえるが、ほかに適切な言葉は見つからない。


 すぐ傍にある山の方を見て、今、紗矢は何をしているだろう、と月夜は想像する。一人で寂しくないだろうか。でも、今までも、彼女はほとんど一人でいたわけだから、そういう環境には慣れているのかもしれない。フィルと一緒にいることもあるらしいが、定常的に猫と一緒にいるのは、意外と、あまり、疲れない、ということに月夜は気づいた。人と一緒にいると、疲れることが多いが、それ以外の動物であれば、それなりに受け入れられるようだ、と彼女は思う。


 自分の隣に、気配を感じる。


 そちらを見ると、フィルが座っていた。


「どうしたの?」月夜は尋ねる。


「別に、どうもしないさ」


「紗矢が、心配?」


「心配だって?」フィルは面白そうに笑う。「いったい、何を心配したらいいんだ? もう、死んでいるんだ。彼女には、危機、という感覚がないだろうね。俺も同じだから分かる。もう、何も心配しなくていい。不安を感じる余地もない」


「理屈として、そう分かっていても、不安は、不条理に、私たちを襲うものだよ」


 フィルは返事をしない。暫くしてから、こくん、と彼は一度頷いた。


「そうかもしれないな」


「彼女の所に、行ってあげたら?」


「いや、今日はやめておこう。俺は、お前といるんだ。気が向いたら、紗矢の所に行くよ」


「いつ、気が向く予定?」


「お前は、そんな予定まで立てられるのか?」


「訊いてみただけ」


「そうだな……。近い将来、とだけ言っておこう」


「近い将来、とは?」


「だいたい、一ヶ月の範囲内だろう」


「分かった」


「あまり、真に受けないでくれよ」


「どうして? 信用しているよ、フィル」


「俺は、信用されるのが、嫌いだ」


「信用と、信頼の違いを、知っている?」


「いや、知らないね。でも、信頼の方が上なんじゃないか?」


「そうだよ」


「じゃあ、俺はまだまだだな」


「信頼しているよ、フィル」


「今さら言い換えても遅い」


「遅くないよ。言い換えたんだから」


「月夜が、紗矢の所に、行ってあげればいいんじゃないか?」


「それは、できない」


「ほう。なぜだ?」


「今は、君と一緒にいるから」


「あまり、面白い答えじゃないな」


「君なら、どう答える?」


「さあ、どうかな……」フィルは少し考えて、それから答えた。「生きている人間の方が、好きだから、かな」


「それ、どういう意味?」


「深い意味はない」フィルは言った。「気にしないでくれ」


 月夜は、言われた通り、気にしなかった。

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