第18話

 月夜は、リュックからノートを一冊取り出した。それは、彼女が日記帳として使っているものだ。彼女には、定期的に日記を書く習慣があった。最近始めたことだから、まだ習慣とは呼べないかもしれない。本当は、毎日書こうと思っていたが、ついつい忘れてしまうことがあって、毎日は書けていない。そして、多くの場合、彼女は、それを、学校にいる間に書いていた。昼休みに書くこともあれば、夜の教室で書くこともある。しかし、学校で書くことに特に意味はない。時間を効率的に使っているだけだ。


 月夜には、日記を書く面白さが分からなかった。それ以前に、文章を書く面白さが分からない。頭の中で考えたことを、他人にも伝わるように、あるいは、自分で再確認できるように、文章、という形に変換するわけだが、する必要がないのであれば、そんなことはしない方が良い、と思う。頭脳と、紙面では、頭脳の方が限りなく自由だ。そして、頭で思いつくことには、順序というものがない。一方で、思いついたことを、一度文章という形にしてしまえば、もう、二度と、順序のない自由を取り戻すことはできなくなる。月夜には、積極的に自由を失おうとする精神が分からない。人間は、根源的に自由を望んでいる。それにも関わらず、様々な行為をすることで、自ら自由を喪失しているのだ。どうして、そんな馬鹿げたことをするのだろう? 自由なんて、どこにもないんだ、とでも主張するように、人々は毎日誰かの指示で動いている。


 自分が今日経験したことを、文章にして、それで、何か得られるものがあるのか?


 きっと、そんなものは欠片もない。


 でも……。


 他人が読むとなれば、話は少し変わってくる。


 自分に齎される利益よりも、他人に齎される利益を優先するなら、あるいは……。


 テーブルがある場所まで移動して、月夜は日記を書き始める。シャープペンシルの芯が入っていなかったから、筆箱からケースを取り出して、芯を補充した。どういうわけか、シャープペンシルの芯は、いつも唐突になくなる。いや、毎日使っているのだから、消費されるのは当たり前だが、そろそろなくなる、と予想するのはかなり難しい。芯の数を記憶すれば、あるいは予想できるようになるかもしれないが、そんな必要はないから、月夜は記憶しようとしたことはなかった。


「月夜は、誰のために日記を書いているんだ?」テーブルの上に載って、フィルが尋ねる。


「それは、秘密」


「どうして?」


「あまり、話したくないから」


「ほう……。お前にも、そんなことがあるんだな。じゃあ、俺が、どうしても教えてほしい、と言ったらどうする?」


「それは……。少し、考える、と思う」


「じゃあ、どうしても、教えてほしい」


「……本当に?」


「ああ、もちろん」


 月夜は、少し困ったような顔をする。そんな月夜の顔を見て、フィルは面白くなった。どうやら、この少女には、冗談が通じないらしい、と彼は思う。


「恋人のために、書いている」月夜は簡潔に答えた。


「へえ……。恋人がいるとは、月夜、なかなかやるじゃないか」


「なかなか、やる、とは、何をやるの?」


「いや、ただの言い回しだよ」フィルは話す。「その恋人は、今はどこにいるんだ?」


「これ以上は、教えられない」


「その恋人と、俺だったら、どっちの方がクールだ?」


「どっちもクールだよ」


「では、どちらの方が大切だ?」


「どっちも大切」月夜は日記を書きながら答える。「そんなのは、決められないと思う」


「どっちかだったら、どっちだ?」


「しつこいよ、フィル」


「気になるんだ」


「フィルの方が、大切」


「随分と、嬉しいことを言ってくれるじゃないか」


「君が、言わせたんだよ。これで、満足した?」


「ああ、大満足だ」


「本心からじゃなくても、言ってもらうだけで、嬉しいの?」


「そりゃあ、もちろん、嬉しいさ。男なんて、そんなものだ」


「男性の気持ちは、私には分からない」


「お互い様だよ」


「そうかな」


「そうさ、きっと」

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