第4章 度々
第16話
階段を下りて、草原に戻ると、空はまだ明るかった。やはり、山の中とここでは、時間の流れ方が違うようだ。先ほどは、自分に原因がある、と思ったが、どうやらそういうわけではないらしい。おそらく、紗矢や、フィルのように、物の怪、といったものが関係しているのだろう。そもそも、物の怪とは、本来はどのようなものを指す言葉なのだろう、と月夜は考える。彼女は、そういった類のものには、あまり触れたことがなかった。小説は、比較的よく読む方だが、ファンタジーを読むことは少ない。多くの場合、彼女は古典を読む。そこに理由はなかったが、昔のことを知れば、多少は自分にとってプラスになる、とは考えていた。
彼女の足もとを、フィルがついてくる。月夜は、しゃがみ込んで、彼を持ち上げて抱きしめた。どうやら、自分は、自分ではない、生きているものと触れ合いたいようだ、と彼女は現状を分析する。寂しいのかもしれない。あるいは、孤独を感じている、とも言い換えられる。そこまで考えて、そういえば、フィルは、生きていないではないか、と月夜は気づいた。自分は、必ずしも、生きているものと触れ合いたいのではないのかもしれない。きっと、そうだろう。そんなふうに、錯覚できてしまえば、それで良いのだ。
「紗矢と、友達になってくれるか?」月夜の腕の中で、フィルが言った。
「友達は、なろうとして、なるものなの?」
「お前に、その気があれば、なれる」
「私は、彼女とは会うようにする」
「よかったよ。まあ、そう言うだろうな、とは思っていたが」
草原を抜けると、すぐに自分の家に着いた。紗矢は、いつも、自分の近くにいると思うと、月夜は彼女との出会いを不思議に感じた。これほど近くにいても、今までずっと気づかなかったのに、たまたま出会った猫が、紗矢の知り合いで、彼女と会ってほしい、と頼んできた。これは、偶然だろうか? それとも、必然なのか? そもそも、偶然と、必然の違いはなんだろう……。
月夜は、この時間帯に家に帰ってくるのが久し振りだった。だから、ちょっとだけ新鮮な感じがする。靴を脱いで、洗面所で手を洗い、フィルにもタオルで足を拭かせて、リビングに入る。鞄をソファに下して、そこに座ると、彼女は小さく欠伸をした。
「どうした? 疲れているのか?」
「疲れては、いない」月夜は端的に答える。「でも、少し、刺激が多かった」
「そうだろうな……。まあ、刺激を感じられるのは、お前が生きているからだ。俺には、もう、そんな経験はできない」
「紗矢と、君が、飼い主と、ペットの関係だった、というのは本当?」
月夜は膝の上のフィルを見る。彼は、顔を上げると、曖昧な表情で答えた。
「ああ、彼女が、そんなことを言っていたな……」そして、返ってきた返答も曖昧だった。「たしかに、そうかもしれないが……。しかし、そんなに親密な関係ではなかった。俺は、あいつの家に一緒に住んでいたわけじゃない。俺には、家なんてなかったからな。たまたま、あいつが、路上で眠っている俺を見つけて、食べ物をくれたんだ。別に、食べ物には困っていなかったが、くれると言うから、貰って、食べた。でも……。あいつの優しそうな顔に、俺は、なんというか、その……、まあ、惚れてしまったんだ」
「あ、そう」
「紗矢は、それから、毎日俺の所に会いに来てくれた。俺は、そのときから言葉を話せたよ。猫には、命が、九つあるからな」
「命が、九つあると、どうして、話せるようになるの?」
「それだけ、長い時間生きていたら、さすがに話せるようになるだろう?」フィルは得意そうに話す。「紗矢と会ったとき、俺は、たしか……、そう、七回目の人生だった。人生、という言い方は、少しおかしいがな……。今は、九つの命をすべて使い果たして、その結果として、今お前の傍にいる。俺は、物の怪だ。もう、生きてはいない」
「物の怪、というのは、すでに死んでいるのに、この世界に滞在しているもの、のこと?」
「まあ、詳しい定義は知らないが、俺は、そういうことにしている」
「紗矢が、死んだ原因を、知っている?」
「さっき、あいつが自分で話したじゃないか」
「それは、本当なの?」
「どうして、嘘を吐く必要があるんだ?」
月夜は少し黙って考える。
「いや、そうじゃなくて、それだけか、という質問」
「ああ、そういうことか……。さあね。俺も、詳細は知らないんだ。ただ、あいつが死んでから、すぐに俺も死んだ。そういう意味では、なかなか絶妙なタイミングだったな。それも、一つの運命、だったのかもしれない」
「紗矢の、彼氏に、会ったことがある?」
「いや、ないね」
「その、彼氏が、そのあとどうなったのかも、知らない?」
「知らないよ」
月夜は、フィルから目を逸らして、天井を眺めた。
「今日はやけに積極的だな、月夜」フィルが言った。「何か、気になることでもあるのか?」
月夜は、フィルを持ち上げて、彼にキスをした。
初めてだった。
だから、自分の行動に、多少驚いた。
驚いたが、その驚きは、ノストラダムスの大予言のように、どこかへ消えていった。
フィルは、特に驚いたような顔はしていない。
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