第15話
フィルが欠伸をする。
「私さ、馬鹿なんだ」紗矢が話した。「この間だって、そこの階段で転んじゃってさ、一人で泣きべそかいていたら、たまたま、フィルが来て、大笑いされちゃって……」
「俺は、笑っていない」フィルが反応する。
「笑っていたよ」紗矢が言う。「もう、小躍りしそうな勢いだったじゃん」
月夜はフィルを見る。彼は、やれやれ、とでも言うように首を振って、彼女に向かってウインクをした。紗矢は、いつもこんな感じなんだ、という意味のジェスチャーかもしれない。
「月夜は、どちらかというと、頭がよさそうだね」
「頭がいい、というのは、曖昧で、不確定だから、なんともいえない」
「ほら、もう、そういう受け答えをするところが、頭がいい証拠だよ。私、絶対に、そんなふうに答えられないもん……。ああ、いいなあ、頭がいい人ってさ。憧れるよね、やっぱり。……まあ、でも、自分は、ずっと、このままがいいなあ……。能天気に暮らしていた方が、きっと、幸せになれるよ。笑う門には福来るって、よく言うしね」
よく、というのは、何を修飾しているのだろう、と月夜は考える。
フィルは目を閉じた。
「紗矢」
月夜は、彼女に声をかける。
「ん? 何?」
「君は、どうして、腕が一つしかないの?」
月夜の質問を受けて、紗矢は数秒間沈黙した。
「うーん、どうしてだと思う?」それから、彼女は少し悪戯っぽい顔をする。「正解したら、ジュース、奢ってあげようか?」
「喉は、渇かない」
「つまんないなあ……」
「気分を害したのなら、謝る」
紗矢は、それを聞いて、にっこりと微笑んだ。
「いいよ、謝らなくて。ううん、そんなに、気にしていないから。気になったことがあれば、じゃんじゃん訊いてくれていいよ。もう、友達なんだしね」
「腕を、失ったのは、どうして?」
紗矢は前を向く。
「失いたかったから、かなあ……」
月夜は黙って紗矢の言葉を待つ。
辺りは徐々に暗くなっていた。もう少しすれば、夜になる。しかし、夜になっても、月夜には、家に帰る理由がなかった。だから、まだ、時間の余裕はある。今晩は、紗矢に付き合って、彼女とずっと話をしていても良い。
「彼に、そうするように、言われたんだ」やがて、紗矢は話し始めた。「だから、私は、それに応えたかった……」
「彼、というのは、誰のこと? そして、そうするように、とは?」
「うん……」
「無理をする必要は、ないよ」
「別に、無理なんてしないよ、私」そう言って、紗矢は笑う。
「今、話さなくてもいい。そして、私に聞かせなくてもいい。本当に、ちょっとした、思いつきで尋ねただけだから……。……嫌なことを、思い出させたのなら、本当に、申し訳ない、と思う」
「いやいや、そんな深刻な話じゃないよ」
しかし、月夜には、それが嘘であることが分かった。
フィルは黙っている。
「私が死んだのは、彼を守りたかったからだよ」紗矢は話した。「もう、何十年も前のことになるけど……。私は、そのとき高校生で、季節は夏真っ只中だった。夏休みになって、学校で補習を受けていた。うん……。私は、勉強が全然できなかったら、テストの点数があまりに酷すぎて、夏休みの間も、学校に通って、勉強しないといけなかった。本当に、嫌だ、と思ったよ。でも……。彼がいたから、彼に会いたかったから、頑張って、補習がある期間、毎日学校に通い続けた。むしろ、彼に会うために、補習に行っていた、と言った方がいいかな。とにかく、夏休みも遊んでいられなかったけど、彼がいてくれたおかげで、楽しかった」
月夜は頷く。
「でも……。ある日、彼は、学校の屋上から飛び降りて、自殺しようとした」紗矢は話す。「私には、彼の考えは理解できなかったけど、でも、やっぱり、彼に生きていてほしくて……。彼が、屋上のフェンスを越えて、私の方を振り返って、こう言ったんだ。自分に死んでほしくないと思うのなら、君が、代わりに死んでくれって……」
紗矢は下を向いて黙り込む。
「それから、どうしたの?」月夜は尋ねた。
「それから……。……ううん、自分でも、あまり、よく覚えていない。気がつくと、頭の上に空が見えた。そして、彼の顔も……。起き上がろうとしたけど、身体に力が入らなかった。横を見ると、腕がなかった。体中が、温かくて、少しだけ、心地良かったよ。自分の一部が、身体から溢れ出して、地面と一つになるみたいで……。……いつの間にか、私は、こんなふうに、あのときの姿のままで、この街の中を彷徨っていた。……彼の姿も探したけど、どこにも見つからなかった。あとになって、彼が、私のあとを追って、死んだことを知った」
紗矢の話を聞いて、困ったな、と月夜は思った。自分でも、なんて薄情な人間なのだろう、と思う。人の死に纏わる話を聞いて、感想が、困ったな、の一言しか出てこない。こんな話を聞いてしまって、困ったな、という意味なのか、そんなふうに、人間が二人も死ぬなんて、困ったな、という意味なのか、月夜には自分の考えが分からなかった。
しかし、死とは、本来そういうものだ。ドラマみたいに、劇的なものではない。命は、あっけなく失われる。その瞬間に立ち会っても、感情は正常に作動しない。あとになって、消えてしまったことを理解してから、初めて、ああ、消えてしまったんだ、と思う。それだけでしかない。
普通、人間は、自分の死を認識することはできない。
けれど、紗矢は例外といえる。
物の怪として、今、月夜の前に存在しているのだから……。
月夜は、紗矢に見えるように、軽く頷いて、彼女の右の掌に触れることしかできなかった。
それは、残念だったね、なんて到底言えない。
そんな無責任な発言は、彼女にはできなかった。
「私は、その人みたいに、君に寄り添うことは、できない」月夜は、立ち上がって、紗矢に告げる。
「うん、分かっている」紗矢は言った。
「それでも、君は、私に、傍にいてほしい、と、望むの?」
「望むよ、月夜。ときどき、ここに来て、話をしてよ」
「今晩は、ずっと、ここにいる」
「え? いや……。……えっと、そこまでしてくれなくても、いいんだけど」
「今晩は、ここにいます」
紗矢は、月夜の真面目な顔を見て、楽しそうに笑った。
フィルが、二人に見られないように口元を上げる。
辺りはすっかり暗くなっていた。どうやら、ここは、ほかの場所とは時間の流れ方が違うらしい。
もしかすると、月夜が、月夜を、連れてきたのかもしれない。
空は見えなかったが、きっと、そこには綺麗な満月が上っているだろう、と彼女は思った。
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