第13話



 授業が午前中で終わって、月夜はすぐに学校を出た。彼女にしては非常に珍しい。たぶん、皆既月食よりは珍しいはずだ。皆既月食と、皆既日食では、どちらの方が珍しいのだろう、と考えてみたが、金環日食、というものも存在することを思い出して、月夜はその思考を直ちに中断した。


 タイミングよくホームに電車が入ってきて、月夜はスムーズに自分が住む地域まで帰ってきた。駅舎を出ると、目の前に黒猫のフィルが待っていた。それは、僅かながら予想していたことだ。月夜は彼を抱えて、自分の肩の上に載せた。


「散歩は、どうだった?」歩きながら、月夜は質問する。フィルに会ってから、自分から質問する機会が増えたな、と彼女は思った。


「今日は、新しい発見はなかったな」フィルは話す。「毎日学校に通って、毎日違う内容の授業を受けていても、同じだ、暇だ、つまらない、と感じるのと、同じさ」


「暇だ、つまらない、とは、感じないけど」


「勉強熱心なやつは、そうだろうな」


 昼時だが、駅の周辺は相変わらず寂れている。もう、この街は、街として存続できないかもしれない、と月夜は何の根拠もなく考える。そうなっても、自分は、きっと、一人でここに残り続けるだろう、とも思った。フィルと二人で、捨てられた街で暮らすのも良い。ファンタジックで、魅力的な発想だ。人間が、思考ではなく、これは発想だ、と感じたものは、魅力的なことが多い。


 空は分厚い雲に覆われている。かなり寒かったが、月夜はコートを着ていなかった。


 フィルの案内に従って、月夜は道を進む。すると、間もなく自分の家が見えてきたが、その数メートル手前で曲がるようにフィルが言った。曲がる、といっても、明確な道は存在しない。彼によると、山の中に入っていけ、ということらしい。月夜の自宅の傍には、小規模な山(正確には、隆起した森)が存在していて、少ないながらも野生の動物が棲んでいる。鳥だけでなく、栗鼠や兎もいた。月夜も、それらの動物を、自宅の付近で見たことがある。


 ちょっとした草原の先に、石造りの階段があった。


「こんなに、近くだとは、思わなかった」階段を上りながら、月夜は言った。


「伝えておくべきだったか?」


「べき、では、なかったと思う」


 階段を上った先に、山への入り口が現れる。そこからは、地面は土で、もう人工的なものはどこにもなかった。


 木の根が這った地面を注意深く歩いて、二人は山の中に入っていく。道がある、ということは、ここを通る人間がいるということだ。つまり、この道の先に、何かある。月夜は、長い間この山の傍に住んでいたが、こんな道があるのは知らなかった。


 鳥の鳴き声が聞こえてくる。ときどき風が吹いて、冬の乾燥した空気が移動した。木々の葉は、どれも枯れていない。道はずっと真っ直ぐで、分岐点はどこにも存在しない。やがて、道の先に広場が見えて、月夜とフィルは立ち止まった。


 静かな場所だった。


 広場といっても、周囲は木々に完全に覆われている。枝葉の隙間から陽光が差し込むだけで、辺りは鬱蒼とした雰囲気に包まれていた。とても穏やかな場所で、時間が存在するのを忘れられる気がする。


 その広場の奥に、建物があった。おそらく、神社だろう。月夜は、寺と、神社の違いを、詳しく知らない。だから、それは、寺かもしれなかった。とにかく、和風なテイストで、何かが祀られているような気配がする建物が、そこにある。


 そして、その手前の石段に、一人の少女が座っていた。


 その姿を見て、月夜は少しだけ驚いた。


 もう一度、少女の姿を注意深く見る。


 彼女は、左腕がなかった。


 目を閉じて座っていた少女が、瞼を持ち上げて、ゆっくりと顔を上げる。二人の姿を確認すると、彼女は、にっこりと笑って、二人に向けて軽く手を振った。


 フィルはその少女のもとへ駆けていく。後ろから、月夜も彼についていった。


「やあ、フィル」その少女が呟いた。「また、来たの?」


 フィルは、彼女が差し出した掌を舐める。別に、餌があるわけではなかった。そもそも、彼は食事をしない。おそらく、それが彼にとっての挨拶なのだろう。


 少女は、月夜を見て、さらに笑みを深めた。


「話し相手を、連れてきた」フィルが言った。「俺の友人だ。とっつきにくいが、信用できる。そして、何よりも、優しい」


 月夜は黙って頭を下げる。


「君、名前は?」少女が言った。


「月夜です」月夜は答える。


「私は、紗矢」少女は笑った。「よろしく」

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