第3章 数々

第11話

 目が覚めると、ソファの上だった。宙に浮いているのではない。普通に、横になって、寝ていただけだ。しかし、横にならないで寝る方法もある。歩きながら眠ることができたら、どれほど素晴らしいだろう、と考えたが、そもそも、眠らなければ良い話なので、その思考は無駄になった。


 月夜は黙って身体を起こす。すぐ隣でフィルが眠っていた。猫は、眠るときに瞼を閉じる。自分は、眠っているとき、瞼はどうなっているのだろう、と月夜は考える。自分の瞼は、自分では見えない。それは、きっと、自分の背中を見るよりも難しい。写真を撮るしかないが、写真に写っているものは、信用できるのか、と彼女は疑問に思う。写真や、映像が、何らかの事件が起きた場合に、証拠として扱われる、というのは不思議だ。それらのものは、簡単に加工できる。そして、そこに写っているものが、そもそも、加工されているかもしれない。つまり、演技をしていても、それを見分ける方法はない。証拠である、のではなく、証拠にしたい、の間違いだろう。


 月夜は、立ち上がって、眠っているフィルをそっと抱きかかえる。そのまま、赤ちゃんをあやすように、彼の頭をそっと撫でた。


 しかし、フィルは、すぐに目を覚ます。


「朝から、何をしている、月夜」黄色い瞳で月夜を見上げて、フィルが言った。「ご機嫌だな。久し振りに、よく、眠れたんじゃないか?」


 時刻は、午前七時だった。いつも、遅く寝て、早く起きている月夜が、今日は、早く寝て、遅く起きたことになる。


「うん、そうかも」


「それは、何に対する肯定だ?」


「機嫌については、あまり、分からない。よく、眠れた、という指摘は、正しい可能性が高い」


「少なくとも、幸せそうだ」


「何が?」


「お前の顔が」


「もともと、そういう顔をしている、という可能性は?」


「それはないな」


「どうして分かるの?」


「さあね。まあ、動物の勘、というやつかな」


 それなら、女性の勘はどうなるのか、と月夜は思ったが、今は黙っておいた。


 久し振りによく寝たから、そのついでに、月夜は、朝食をとることにした。といっても、いつも以上に眠ってしまったから、あまり時間がない。だから、食パンを一枚手に取って、そのまま食べた。フィルは、もともと何も食べないから、彼女の足もとでうろちょろしている。別に、うろちょろしている理由はないだろう。そんなことにいちいち理由があったら、もう、世界中で起こるありとあらゆる事象に理由があって、人間はもっと神を信仰するようになるだろう、と月夜は奇妙な連想をした。


 今日は、金曜日だった。あと一週間で、今学期の学校が終わる。すでに、授業は午前中しかなくて、暇な時間を獲得した学生が、暇な時間を過ごしている、といった、酷く当たり前の日常が展開されている。月夜は、今まで、暇、というものを感じたことがない。そもそも、暇とは何か? 何もすることがない、という状態を、暇、という言葉で表すことが多いが、何もすることがない、というのはおかしい。そういう人は、呼吸も拍動もしていないのだろうか。それはそれで素晴らしい。自分もそういう生き物になりたい、と彼女は思う。けれど、それでは、生き物とは呼べないかもしれない。いや、そもそも、生き物である必要もないだろう。


 食パンを食べ終えてから、二階の自室に上がって、着替えを済ませる。それから、今度はもう一度下に降りて、洗面所で顔を洗った。いつもより自分の行動に無駄があって、月夜は多少驚く。きっと、まだ頭が回っていないのだろう。フィルと一緒に玄関の外に出て、ドアに鍵をかけて歩き始めた。


「学校が終わったら、すぐに、帰ってきてくれないか」フィルが言った。


「そんなに、急ぐ必要が、あるの?」


「急ぐ必要はないが、余裕があった方がいい。それは、お前にも、分かるだろう?」


「うん」


「一度家に帰ってきて、休憩したら、案内しよう」


「休憩する必要はない」


「そう言うと思ったよ」


「ごめんね」


「何について、謝っているんだ?」


「その、今日会う人は、日中でも、会えるの?」


「気紛れだから、いつ会えるか分からない」フィルは説明する。「だから、昼間から、所定の場所に行こう、と考えた。もしかすると、夜まで待つことになるかもしれない。まあ、いつも、学校に残っている時間を、今日はその場所で過ごす、と考えれば、帳尻が合うだろう?」


「うん、合う」


「じゃあ、そういうことで、頼むよ」


「うん、頼まれた」


「今日は、やけに応答が的確だな」


「そうかな……」


「俺は、お前が帰ってくるまで、散歩をしているよ」


「いってらっしゃい」


「やっぱり、いいね、散歩は」


「どうして?」


「どうして、とは、どういう意味だ?」


「私にも、分からなかった」


 駅舎の前で、月夜とフィルは別れた。彼はバスロータリーを横断して、街中へと消えていく。今日も駅の周りは閑散としていて、人の数は少なかった。空は曇っている。最近、曇っていることが多い。今日は雪は降らないらしい。

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