第10話

 自宅に到着した。ドアを開けて玄関に入る。


 二人は、そのまま、バスルームに直行した。お湯が沸くまで時間がかかりそうだったから、先に身体と頭を洗った。フィルは、特にお湯が嫌いそうではない。どちらかというと、好きみたいだ。シャワーで彼の身体を洗うとき、顔に思いきりお湯がかかってしまって、フィルは文句を言った。月夜は、その様子が可愛らしくて、彼を抱きしめて謝った。


 軽く湯船に浸かってから、洗面所に出て、月夜は部屋着に着替える。そのままリビングに向かい、月夜とフィルはソファに座った。


 月夜は、今日は、本当に、眠らないつもりだった。フィルが何をするのかと尋ねると、月夜は、何をしようか、今、考えている、と答えた。


「本でも読んだらどうだ?」


「うーん、本は、読むしかない」月夜は虚ろな瞳で応える。


「どうやら、眠いみたいだな」


「眠くは、ない」


「なあ、月夜」フィルは月夜の膝の上に載る。「お前は、どうして、一人で解決しようとするんだ?」


「一人で、解決?」月夜は首を傾げた。「それは、どういう意味?」


「もっと、周囲の人間を、頼った方がいい」


「人間、ということは、君には、頼れないの?」


「いや、俺も含めて、色々な存在に、力を借りるんだ」


「どうして、そんなことをする必要があるの?」


「必要はないさ。でも、そうした方が得だろう? ないよりは、あった方がいい、というのが、お前の考え方じゃなかったのか? 俺が見る限り、お前は、他者を、自分から遠ざけようとしている。それは、どうしてだ? 一人が好きなのか? しかし、一人が好き、というのは、後天的に獲得された好みだろう? 人間は、誰しも、他者の存在を求めている。それを避けるには、意識的に、自分を他者から遠ざけるしかない。お前は、どうして、そんなふうに考えるようになった? どうして、進んで一人でいようとする?」


「どうして? 一人で?」


「ああ、そうだ」


 月夜は黙って考える。


 目の前に、真っ黒な大きな板があった。


 テレビの画面だ。


 電源を入れれば、人の顔が見え、人の声が聞こえる。


 どこにいるのか、そして、本当に存在しているのか、それすら分からない、誰かの顔と声。


 自分は、他者の存在を望んでいない?


 いや……。


 他者の、存在を、望んでいない、のではない。


 むしろ反対だ。


 自分の、存在を、望んでいないのだ。


 そう、それが正しい。


「私は、本当は、生まれたくなかったのかもしれない」月夜は言った。「自分が、存在することで、様々なエネルギーが、無駄に消費されていく。それが、嫌だ、と感じるのかもしれない」


「お前が生きている限り、消費されるエネルギーは、無駄にはならないよ」


「うん、そう……。でも、そんなふうに、感じてしまう」


「なるほど。つまり、他者と関わらないことで、自分の存在を消そうとしているんだな」


「そう、かも、しれない」


 フィルは月夜の肩に上り、彼女の頬を軽く舐めた。


 月夜は前を向いたまま動かない。


 しかし、やがて、彼女は首を傾けて、自分の頬をフィルの頬に触れさせた。


 それができるのは、自分と、相手が、生きているからだ。


 けれど、そんなふうに考えるのも、自分が、生きているからだ、といえる。


 果たして、自分は、生きているのだろうか?


 月夜は考える。


 少しだけ、悲しい気持ちになった。


 その気持ちは、フィルとは共有できない。少しはできるが、それは、本当に、最後までパックに残る牛乳みたいに、少しだけ、でしかない。


 それなら、いっそのこと、そんなことはできなくても良い、と思う。


 それが、彼女が出した結論だった。


 でも……。


 心の底では、きっと、そんな自分の考えさえも容認してくれる、都合の良い誰かの存在を望んでいる。


 そうに違いない。


 だから、矛盾している。


 そんな自分が、許せなかった。


 気持ち悪い、と思う。


 気持ちが悪くて、吐きそうになる。


 そして、そんなふうに感じるのも、やはり、自分が生きているからなのだ。


「やっぱり、眠りたい」


 そう言って、月夜はソファで横になる。


「こんな所で、眠らない方がいい。まだ、髪も、乾かしていない」フィルが諭す。


 月夜は答えない。


 そのまま、フィルを胸もとに引き寄せて、月夜はすうすうと寝息を立てた。

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