第9話
大分寒かったから、月夜は、フィルと一緒に帰路についた。
近くにある駅から、電車に乗る。乗車中、フィルは月夜のリュックに隠れていた。フィルは、もう、自分は死んでいる、と話していたから、ほかの人には見えないのかもしれない。たしかに、見えないものは、存在しない、と判断されることが多い。でも、見えないのに、多くの人間は、心は存在する、と信じている。ほかにも、意味や、目的や、時間など、見えないものは沢山ある。幽霊の存在は信じないのに、どうして、生きる目的があると信じられるのだろう? 月夜は、むしろ、その逆だった。つまり、幽霊の存在は信じられても、生きる目的があるとは信じられない。それ以上に、自分に心があるとさえ信じられそうになかった。自分に心があると信じられなければ、当然、他者に心があるとも信じられない。けれど、フィルには、心があるような気がした。それも、きっと、幻想だろう。そう……。何もかも幻想で、現実なんてどこにも存在しない。幻想の中で、常に干渉できるものを、現実、と呼んでいるだけかもしれない。
車内は空いていた。窓の向こうで景色が流れていく。街の光が尾を引いて、次々に右側に流れていった。本当は、景色が右側に流れているのではなく、電車が左側に走っている。人生も、それと同じかもしれない。時間が流れているのではなく、本当なら、流れなくても良いものを、生き物が、好き好んで、時間の中を流れているのだ。
自宅の最寄り駅に到着して、月夜は電車を降りた。改札を抜けてから、リュックからフィルを出して、地面を歩かせる。駅舎の前のバスロータリーは閑散としていて、誰もいなかった。
分かれ道を左に曲がる。前方には住宅街が続いていた。
「なあ、月夜」フィルが言った。「今度、ちょっと、俺に付き合ってくれないかな」
「付き合ってくれないかな、とは、どういう意味?」
「どういう意味だと思う?」
月夜は前を向いたまま考える。
「恋人になる、ということ?」
「妙なバイアスがかかっているみたいだな」
「バイアスは、どれも、かかっているものだよ」
「そこは重要じゃない」
「それで、付き合う、というのは、どういう意味なのか、説明してくれる?」
「会ってほしい人がいるんだ」フィルは説明する。「いや、正確には人じゃないな……。そう、人、つまり、人間ではない。まあ、でも、それは、本質的には生き物ではない、という意味だから、お前には、普通の人間と同じように見えるかもしれない」
歩道の真ん中に少し大きい石が落ちていて、月夜のつま先に当たって前方に転がった。月夜は、それを手に取って、歩道の隅に移動させる。誰かが怪我をするかもしれない、と思ったからだった。
「それは、どういう意味?」
「物の怪なんだ」
「物の怪とは?」
「簡単に言えば、化け物、みたいなものだな」
「化け物とは?」
「まあ、妖怪、と言っても差し支えない」
「それでは、妖怪とは?」
「なんだ、月夜。ふざけているのか? 今日は、やけにテンションが高いじゃないか」
「真剣に、質問しているつもりだけど」
「つもり、にしかなっていないぜ」
「そうかな……」
「俺も、物の怪だ」フィルは言った。「一度死んでいるからな。まあ、人によって、物の怪、の定義は違うが、今のところは、一度死んで、生き返ったもの、と定義しておくとしよう。だから、俺は物の怪だが、お前は物の怪じゃない。そして、その会ってもらいたいやつというのは、物の怪だから、一度死んでいる」
「お墓に入っているの?」
「いや……。それはどうだろう」
「どうして、私が、その人に会う必要があるの?」
「それは、お前にとって、どんな利益があるのか、という質問か?」
目だけ横に向けて、月夜は隣を歩く黒猫を見る。
「うーん、今のは、ちょっと、違うかもしれない。純粋な質問、というか」
「一人で、退屈らしいんだ」
「どうして、一人だと、退屈なの?」月夜は首を傾げる。
「お前は、一人でも、退屈じゃないのか?」
「退屈ではない」
「まあ、そういう人間もいるのさ」
「死んでしまったのに、退屈だと感じる、というのが、よく分からない」
「そういう物の怪もいるんだよ」
「うん」
「そいつと会って、話をしてほしいんだ」
「誰が、してほしいの?」
「俺が」
「えっと、何の話をするの?」
「会えば分かる」
月夜は沈黙する。
彼女は、基本的に、他人から頼まれたことは断らない。断る合理的な理由があれば断るが、そうでない限りは、どんなことでも、協力しよう、と思う。しかし、そんなことに、自分が生きている価値を見出しているわけではない。ただ、なんとなく、協力した方が良いかな、と思うだけだ。断られれば、断れた側は、多少なりとも落ち込む。できるなら、誰かが落ち込むようなことは、ない方が良い、と月夜は考える。それは、もしかすると、優しさと呼ぶのかもしれない。けれど、月夜は、自分では、それを優しさだとは思っていなかった。どちらかというと、エゴといった方が正しい。そうしないと、自分が満足できない。ただ、それだけでしかない。
「分かった。じゃあ、会うよ」月夜は答えた。「いつ、会いに行けばいいの?」
「明日の夜だ」
月夜はフィルを見る。
「随分と、急だね」
「そう、急なんだ」
「何か、急がなくてはいけない理由が、あるの?」
「退屈すぎて、そいつが発狂してしまうかもしれないからな」
「なるほど」
「いや、そこは納得するところじゃないが」
「そう?」
「ああ、そうだ」
「えっと、ごめんね」
「さては、謝れば済むと思っているな?」
「そんなふうには、思っていない」
「まあ、いいさ。とにかく、協力には感謝する。俺も、お前にそうしてもらわないと、面が立たない、というものだからな」
「面が立たない、というのは、どういう意味?」
「詳しくは知らない」
「詳しくなくても、いいよ」
「大雑把にも、知らないね」
「知らないのに、その言葉を使ったの?」
「そうだ」
「凄い」
「誰が?」
「私が」
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