第8話
暫くの間、二人は何も話さなかった。口を閉じて、顔を前方に向けている。しかし、そこには、古ぼけた木造の家があるだけで、別段面白くはなかった。面白くなくても、人は、行動することができる。学校は、面白い場所ではない。しかし、それでも、毎日そこに通い続けられる。それは、どうしてだろう? たしかに、面白いことがなくても、人間は生きていける。それでも、面白いことは、ないよりはあった方が良い。そう感じるのはどうしてか。そもそも、面白いというのは、具体的にどういうことだろう?
自分が、まだ、意識的に思考しているのが分かったから、月夜は、一時的に脳内の回路を切り替えて、ぼうっと現状を観察することにした。
まず、目の前に、アスファルトがあるのが分かった。しかし、それは、厳密には、アスファルトではない。そして、厳密とは何か、という問題が残るから、この説明自体、そもそも全然厳密ではない。ということで、アスファルトを、ただの石の塊、として処理することにする。しかし、石をこれ以上細かくしてはいけない。石は、分子が集まってできており、そして、分子は、原子が集まってできている。けれど、アスファルトは、原子ではない。これ以上の抽象化は危険だ。本質を残したまま、如何に抽象化するか、といった立場で観察しなくてはならないから、細かくしすぎてはいけない。
次に、自分の位置情報を確認する。その前に、自分とは何か、と考える。ここでいう自分とは、哲学的な、自我や、自己、といった性質を持つものではない。単純に、存在としての自分、として扱う。最も問題なのは、肩に載っているこの黒猫を、自分として扱うか、ということだ。ここでは、黒猫も、自分の一部として扱う。なぜなら、彼は、今、自分の身体に密接している状態で、あえて分ける必要がないからだ。位置情報について考えるから、まずは起点を定めなくてはならない。起点は、とりあえず、目の前にある木造建築の、門の隣にある壁の、その表面にある表札に彫られた、とある漢字の、一画目の終着点、としておく。このときも、これ以上細かくしてはいけない。表札は、石版から成っているが、石版は原子ではないし、したがって、表札も原子ではない。
さて、こうすれば、自分と、その一画目の終着点との間の、距離を計ることが可能になる。その距離をAとして、単位をセンチメートルと置けば、自分がどこにいるのか分かる。
しかし、それでは、その距離Aは、いったい何を表わしているのか?
それは、空間の存在、ではない。
そして、物質の存在、でもない。
距離Aは、宇宙の存在を表わしている。
そして、宇宙は、空間ではない。
「それは、思考というんだ」肩に載っているフィルが、落ち着いた声で話しかけた。「お前には、それしか、できないみたいだな」
月夜はフィルを優しく抱えて、自分の両腕の中に入れる。目が合った。
「うん……。私には、それしか、できない」
「それは、問題かもしれないが、それでも、問題ではない、かもしれないな」
「どういう意味?」
「月夜の真似だよ」
「私が、考えるのは、どうして?」
「考えたいからさ」フィルは答えた。「それ以外の答えなんてない」
「どうして、考えたい、と思うのかな?」
「さあ、どうしてだろうな」
「君には、分かる?」
「月夜のことは、月夜にしか分からないさ」
「それは、どうして?」
「宇宙が、そうさせているからだ、と、今、自分で、気づいたんじゃないのか?」
「どうだろう……」
二人の背後で、大きな音を立てて電車が通り過ぎた。その間、月夜と、フィルは、何の言葉も発さなかったが、何かしらの意思を伝え合った。そうしたのは、まさにそのタイミングで、電車が二人の背後を通過したからだ。それ以外の理由はない。
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