第2章 星々
第6話
線路のフェンスに凭れかかって、月夜は空を見上げている。沢山の星が輝いていて、一つ一つが生きているように見えた。月は見えない。雲に隠されているのか、今日が新月なのか、月夜には分からなかったが、見えなければ、どちらでも同じだ、と彼女は考える。見えなくても、存在するものはあるし、存在するのに、見えないものもある。見えるのと、存在するのは、どちらが先だろう? 考えても分からないが、分からないからこそ考える。この関係も、前の関係と同じだ。考えるから分からなくなるのか、それとも、分からないから考えるのか、どちらだろう、と月夜は思った。
ときどき、彼女の背後で電車が通り過ぎて、線路の先へと消えていく。暗くて、遠くの方は見えない。電車が走る振動が、フェンスまで伝わってくるようで、それが、月夜は心地良かった。こんなふうに、ものの動きを察知できるのは、自分が生きているからだ、と彼女は感じる。フェンスは、生きていないから、振動を感じないかもしれない。けれど、感じなくても、フェンスは確かに揺れている。感じるとは、どういうことだろう? そもそも、どうして、感じる必要があるのだろう? プラスのことであれば、感じれば、たしかに嬉しいが、マイナスのことであれば、感じると、気持ち悪くなる。それなら、いっそのこと、何も感じない方が良いのではないか、と月夜は感じる。と、こんなふうに、また、そんなふうに、感じる、のだから、やっぱり、感じるのでないか、と月夜は感じた。
沿線の道路には、今は人の姿はない。車もほとんど通らなかった。家は何軒か建っているが、窓の灯りは消えている。すぐ近くに駅のホームがあって、屋根に設置された照明だけが、この辺りを明るく照らし出していた。橙色がかった光が、どことなく不気味だ。その色の光を見ると、どうしてか、月夜は、不安な気持ちに襲われる。理由は分からない。何らかのトラウマを抱えているのかもしれない、と思ったが、普通、人は、何らかのトラウマを抱えているものだから、当たり前か、とも思った。
ふと下を見ると、足もとに一匹の猫がいるのが分かる。彼の毛は黒いから、今まで闇に溶け込んでいたのかもしれない。瞳は黄色くて、鋭い目つきをしている。それは、最近月夜の友人になった、黒猫のフィルだった。
「やあ、月夜」フィルが喋った。「なかなか、帰ってこないから、俺の方から会いにきた」
「ごめんね」
「どうして、謝る必要がある?」
「なんとなく、謝ろうかな、と思ったから」
「謝りたかった、ということか?」
「そうかもしれない」
「それは、お前の欲望だから、俺には関係がないな」
「君は、謝られても、平気?」
「意味が分からない」
「意味、なんて、ないよ」そう言って、月夜はその場にしゃがみ込む。「一人にして、ごめんね」
「お前は、一人になりたかったのではないのか?」
「そうかも、しれない」
「確かなことが、言えないようだな」
「うん……。断定は、苦手」
「苦手、という分析結果は、断定じゃないのか?」
「そうかも」月夜は笑った。「その可能性はある」
フィルは、月夜の腕を伝って、彼女の肩に上る。そのままそこに座って、月夜の頬を軽く舐めた。月夜は、フィルが座っている方に軽く頭を傾けて、彼のスキンシップに応じる。スキンシップは、一種の言語表現だから、そこには、何らかの意思がある、と考えられる。相手が人間ではなくても、同じ動物だから、月夜には、フィルの意思が少しだけ分かった。
いや、本当は、少しどころではない。
少しも、分からない、といった方が正しい、かもしれない。
彼女には、分からなかった。
月夜は立ち上がって、再びフェンスに凭れかかる。
「不良少女だな、月夜」フィルが彼女の耳もとで言った。「こんな時間まで、外をうろついているのがばれたら、停学処分になるぞ」
「見つからないから、大丈夫」
「どうして、そんなことが言える?」
「誰も、私のことは、気に留めていない」
「なぜ、それが分かる?」
「うーん、なぜ、かは分からないけど、そうであることは、確実に分かる、といった、ある種の錯覚、かもしれない」
「なるほど。主観の話だな」
「君には、私が見えるみたいだから、君にとっては、私は、存在することになっている、みたいだね」
「そうだ」
「変なことを、言ったかもしれない」
「一人で話していないで、俺と会話してくれよ」
「独り言を言ったのではない」
「独り言なんて、本当にあると思っているのか?」
「ないかもしれないし、あるかもしれない」
「月夜は、そういう言い方が好きなんだな」
「好き、と感じることはない」
「では、そういう言い方を好むんだな、と言い直しておこう」
「好きと、好むの、違いは?」
「さあね。あくまで、ニュアンスの違いでしかない。胡麻豆腐と、胡桃豆腐の違い、みたいなものだろう」
月夜は、胡麻豆腐は知っていたが、胡桃豆腐は知らなかった。ただ、フィルが、たった今、思いつきで作った言葉かもしれない。
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