第4話
月夜は久し振りに夢を見た。夢の中では、彼女は一人で、果てのない荒野に立っていた。本当に誰もいない。吹き抜ける風は冷たくて、酷く乾燥している。太陽は昇っていなかった。しかし、月も見えない。地面は黄土色をしていて、草や花もどこにも存在しない。とても寂れた空間で、彼女は、自分がそこにいることを、非常に不思議に感じていた。
その場に立ち止まったまま、月夜はゆっくりと周囲を見渡す。限りない平面が続いていて、どこに向かったら良いのか分からない。けれど、動かなくてはならない、といった衝動が自分の中に存在するのが分かったから、月夜は足を一歩前に踏み出した。
その途端、景色が変わった。
彼女は、どこだか分からない、広大な工場の中にいた。
至る所に背の高い電灯が立っていて、彼女をじっと見下ろしている。ときどき重低音が聞こえてきて、これ以上ないくらい不気味だった。すぐ近くに海があるのが分かる。潮風が吹いてきて、彼女の髪を軽く攫った。月夜は自分の掌を見る。彼女の手は僅かに濡れていた。やがて、それが、自分の目から零れたものが付着したからだと気づく。とてつもなく悲しいような気がした。それがどうしてなのかは分からない。金属を打ちつけるような音が聞こえて、月夜はそちらを振り向く。けれど、重厚な機器に視界を阻害されて、その先に何があるのか見えなかった。
どうしたら良いだろう、と彼女は自分に問いかける。
月夜は、基本的に、感情的な行動はしない。常に合理的な視点に立って物事を判断する。だから、今も、そうするべきだろう、と思った。まずは、どうして、自分がここにいるのかを思い出さなくてはならない。
しかし、それはできなかった。
記憶の一部に靄がかかっていて、思い出したい、と思うほど、それは思い出すことができなくなる。とてももどかしかった。そんな経験をしたのは、彼女は初めてだった。気味が悪い。気分も悪かった。何も食べていないのに、胃の中のものを吐きそうになる。
耐えられそうになくて、口もとに手を添える。
目から涙が溢れた。
どうしたのだろう?
次の瞬間、周囲に立ち並ぶ街灯の光が激しくなり、月夜は目を覚ました。
隣を見ると、フィルの無表情な顔が見えた。
「どうした?」彼が訊いた。「何か、変な夢でも見たのか?」
月夜は黙って起き上がる。頬に触れると、微かに濡れていた。現実の世界でも、泣いていたのだ、と彼女は思う。
いや……。
これは、本当に、現実なのか?
すべて、夢かもしれない。
どうしてか、唐突に、彼女はそんなことを思った。
深く息を吸って呼吸を落ち着ける。
フィルが彼女の肩に上ってきた。
「大丈夫」月夜は呟いた。「なんでもない」
「本当になんでもないときは、なんでもない、とは言わないものだがな」
「うん……。……そうかもしれない」
「何か、あったのか?」
「ううん、何も」
「まあ、無理に詮索するのはやめておこう」
「今、何時?」そう言いながら、月夜は枕もとの時計を見る。
「五時だ。まだ、三時間しか眠っていない」
月夜は立ち上がり、布団を片づけて着替えた。もう、眠る気にはなれなかった。ワイシャツを着て、スカートを履いて、いつも通り机の前に座る。隣にある棚から参考書を取り出して、勉強を始めた。何をしようか迷ったが、一番上に化学の問題集があったから、それを開いて、適当に計算を始めた。
「朝から、勉強か。素晴らしいな」
「素晴らしい、というのは、どういう意味?」
「お前は、質問が好きみたいだな」
「好き、ではない」
「話しながら、勉強ができるのか?」
「少しなら」
「何が少しなんだ?」
「会話に費やす脳の領域が、少しだったら、という意味」
「少し、の基準が、お前にはあるのか?」
「全体の三十パーセント」
「それを、少し、というのは、変わっているな」
「そうかな」
話しながら、月夜はペンを動かす。
「月夜は、どうして、勉強なんてするんだ?」フィルが訊いた。
「した方が、しないよりはいいから」
「なるほど。合理的だ」
「合理的、というのは?」
「リスクを最小限にする、という意味も含む」
「リスク、というのは?」
「さあね。俺には分からないよ」
「分からないのに、話しているの?」
「ああ、そうさ。会話なんて、抗原抗体反応みたいなものさ。外部からの刺激に対して、如何に早く反応できるか、ということを、競っているみたいなものだ」
「競っている、の、意味が、分からなかった」
「それが、会話だ」
「なるほど」
「勉強も、会話と、同じだな」
「どうして、抗原抗体反応、という言葉を、知っているの?」
「知る機会があったから、に決まっているじゃないか」
「それは、そうだね」
「化学が好きなのか?」
「好き、ではないよ」
沈黙。
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