第3話
自分の身体と、フィルの身体を洗って、月夜は風呂から出た。時計は午前二時を示している。これから、布団に入って、眠ったとしても、四時間ほどしか眠れない。しかし、それで良かった。月夜は、睡眠について、長ければ長いほど損をする、と考えている。そして、彼女は、睡眠時間が四時間でも全然平気だった。日中の生活に何の支障も来さない。その習慣が、自分の寿命を縮めているとしても、それは、それで、どうでも良い、と思えた。
月夜は、生きることを大切だとは思っていない。
布団に入るときも、フィルが一緒だった。動物の体がすぐ近くにあって、暖かかった。
「ねえ、フィル」月夜は、彼女にしては珍しく、自分から声をかけた。
「なんだ?」
「君は、どうして、私の誘いを受け入れたの?」
「どうして、と訊かれても困るな。そうしたかったから、では駄目なのか?」
「私と、同じ、理由?」
「ま、想像に任せるよ。お前には、それくらいの思考力はあるだろう?」
「思考力が、ある、という言い方は、おかしいと思う」
「どういう意味だ?」
「ううん、なんでもない。ごめんね、ついつい、思いついたことを口にしちゃった」
「別に、謝る必要はない」
「うん……」
「もう、眠いのか?」
「眠くはないよ、全然」
「でも、瞼が落ちそうだ」
フィルは小さな手で月夜の頬に触れる。
「意識して、閉じようとしているから、だよ」
「お前は、本当は、夜行性だろう?」
「夜行性、とは?」
「生物としての活動を、主に夜の間に行う性質を持っている、ということだ」
「それは、分からない」
「昼でも、夜でも、どちらでも活動できるのか?」
「それも、分からない」
「何なら分かる?」
「何も、分からない」
「そうか……。それなら、俺が、お前を理解できるように努力しよう」
「ありがとう」
「お前は、裏表がないみたいだな。安心したよ。猫は気紛れだが、人間はもっと気紛れだ。しかも、それは、本当の意味での気紛れじゃない。わざと、そんなふうを装っているんだ。だから、なおのこと具合が悪い。お前は、人間だが、そういった性質を持っていなくて、よかったよ」
「うん……。そんなこと、昔、誰かに言われたことがある、かもしれない」
「自分では、そう思っていないのか?」
「どうだろう……」
「話していても、大丈夫なのか?」
「何が?」
「寝た方がいい」
「優しいんだね」
「俺に、優しさはない」
「そうなの?」
「そうさ。少なくとも、自分ではそう思っている」
「そっか……」
話すのをやめると、本当に何も聞こえなくなる。今夜は風も吹いていなかった。大きい方の窓にはシャッターが下りていて、もう一つある小さい方の窓にはカーテンがかかっているから、室内は真っ暗で何も見えない。フィルが、近くにいる、といった気配だけが月夜に伝達される。それは、小さな呼吸の音。それとも、豆で鉄板を打つような心臓の鼓動……。
「月夜。お前は、孤独は嫌いか?」
暫くすると、フィルが話を再開した。
「孤独、の意味が、まだ、いまいち、よく分かっていない」
「それは、きっと、一生かかっても分からない」
「うん……。そうかもしれない」
「一人と、二人なら、どちらがいい?」
「一緒にいるのが君なら、二人、の方がいいよ」
「誰なら、いいんだ?」
「一緒にいて、楽しいなら、誰でも」
「俺といて、楽しいのか?」
「安心するし、落ち着く」
「それは、楽しい、というのとは違うだろう?」
「分からない……」月夜は呟く。「君は、どう?」
「どう、というのは、何について尋ねているんだ?」
「孤独は、嫌い?」
「俺は、孤独な方がいい。猫は群れで生きる動物ではないからな。生来、そういう生き物なんだ。仕方がない」
「私は、そういう方が、好きだよ」
「そういう方、というのは?」
「うーん、一人でも、大丈夫、みたいな……」
「お前は、一人でも、大丈夫そうだな」
「そうかもしれない」
「それでも、俺を拾った」
「うん」
「不思議な思考をしている」
「思考は、どれも不思議だよ」
「ほう」
「フィル、もう少し、こっちにおいでよ」そう言って、月夜は彼を自分の方へ引き寄せる。そんなことをするのは、初めてだったから、彼女は、内心、自分の行動に驚いた。
フィルは何の抵抗もせずに、月夜の腕に抱きしめられる。
「何か、最近、大きな喪失をしたんだな、月夜」
フィルの声が暗闇に溶けた。
「うーん、どうだろう……。喪失では、ないよ。ちょっと、寂しいな、と思ったのは、本当」
「寂しいのは、嫌いか?」
「できるなら、寂しくない方が、いい」
寂しいとは、どんな感情だろう?
月夜は、今まで、そんな感情を抱いたことはなかった。少なくとも、記憶にはない。たとえ感じたとしても、それは一瞬の内に処理されて、なかったことになる。彼女には、そういった回路が存在していた。
「おやすみ、フィル」月夜は呟く。
「ああ、おやすみ」フィルは応えた。
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