第2話
間もなく、月夜は自宅に到着する。何の変哲もない、いたって普通の一軒家だ。何の変哲もない、というのと、いたって普通の、というのでは、明らかに意味が重複しているが、月夜はあまり気にしない。こういうことを気にすると、途端に色々なことが気になり出して、最終的に普通に生活できなくなる。だから、気にしてはいけない。流す、くらいの態度で良い。
玄関で靴を脱ぎ、洗面所で手を洗ってから、月夜は一度リビングに入って、ソファに自分のリュックを置いた。その間、フィルは風呂場で待たせておいた。彼がどのくらい外にいたのか分からないが、室内で過ごしていたわけではないから、身体が汚れているのは明らかだ。月夜は、自分の身体が汚れているのか分からなかったが、少なくとも、入らないよりは、入った方が良いだろう、と思って、フィルと一緒に風呂に入ることにした。
軽くフィルの身体をお湯で流し、彼を浴槽に入れる。それから、自分の身体も軽く流して、月夜もお湯に浸かった。
「どう? 平気?」月夜は尋ねる。
「ああ、問題ない」フィルは、左手で自分の顔を擦って、心地良さそうに喉を鳴らした。「月夜は、いつも、風呂を沸かしているのか?」
「それは、どういう意味?」
「毎日、水を、沸騰させているのか、という質問だ」
「沸かしたら、必ず入る。だから、沸かすだけ、という日は、ない」
「興味深い回答だな」
「フィルは、お風呂に入るのは、久し振り?」
「まあ、そうかもしれない」フィルは話す。「俺は、もう、死んでいるから、本来、身体は汚れないし、だから風呂に入る必要もない。お前が見ているのも、俺の表面的な意識の断片でしかない。魂は、別の形をしている。しかし、俺は、お前に、猫としての自分を、見てほしい、と考えた。だから、こんな姿をしているというわけだ」
「猫は、嫌いじゃない」
「では、好きではないのか?」
「自分では、分からない」
「何か、悲しいことでもあったのか?」
フィルが突然質問してきたから、月夜は首を傾げた。
「どうして、そんなことを訊くの?」
「俺には、お前の心の中が分かる」
「どうして、分かるの?」
「月夜は、質問するのが好きだな。分からないことは、そのまま、放置しておけない性格か?」
「放置しても、なんとも思わないけど、知れるなら、そちらの方がいいかな、とは思う」
「なるほど。合理的だ」
「何が、合理的なの?」
「極端に向かわずに、中立の立場を築いている。それは、合理的だろう、と俺は思う。つまり、正しい行いだ。正しい行いをしていれば、地獄に堕ちることはない。お前は、死んでも、天国に行けるだろう」
「フィルは、天国に、行ったことがあるの?」
「いや、ないね。そんなものがあるのかも、俺には分からない」
「死んだんじゃないの?」
「そうさ。死んだ。今、お前には、俺の姿が見えているだろう? 俺は、死後の世界に行くのを嫌って、この世界に留まることにした。だから、生きているお前と、俺は、今、こうして、会話することができるんだ」
「そっか」
「納得するのも、早いな。素晴らしい反応速度だ。感激するね」
「そう、かな」
「月夜」フィルは話す。彼は、お湯の中でぷかぷか浮かんでいた。「お前は、どうして、俺を拾ったんだ?」
月夜はフィルの黄色い瞳を見つめる。フィルも、また、月夜の冷徹な瞳を見つめていた。どちらも、率直に言えば、気味が悪い。
月夜は、その質問にはさっき答えたつもりだったから、同じ答えを再び彼に伝えた。
「君に出会って、拾おうかな、と思ったから、だよ」
「お前は、それが本当だと、思っているのか?」
「自分の考えたことが、正しいか、ということ?」
「うん、そうだな……。……それが、自分の本心ではないかもしれない、と疑ったことはないか?」
「疑う必要のないものは、疑わない」
「どういう意味だ?」
「私が、どのような思考を経て、その結論に至ったとしても、それは、すべて、私が自分で考えたことだから、間違ってはいない。だから、それが正しいか、なんてことは、考える必要がない」
「なるほど」
「どうして、そんなことが気になるの?」
「別に、気になるわけではないさ。ただ、ちょっとした好奇心で訊いてみただけだ」
「そういうのを、気になる、と言うんだと思うよ」
「誰が思うんだ?」
「私が」
「うん、そうだな。俺もそう思った」
月夜は、フィルを引き寄せて、自分の腕の中に抱きかかえる。水面から湯気が上がって、風呂場はとても暖かかった。とても、気持ちが良いと思う。一生このままだったら良いな、と少しだけ思ったが、同じ状態がずっと続けば、きっとそれにもいつか飽きてしまう。だから、ときどき、意識的に違うことに移らなくてはならない。しかしながら、世の中には、同じことをずっと続けていても、自分がそれに飽きていることにすら気づかない、という人もいる。それは、一種の病気かもしれない。けれど、病気であろうと、何であろうと、気持ちが良いのであれば、少なくとも、それが気持ちが良いと信じられるのであれば、なんでも良いだろう、と月夜は考えていた。
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