篝火導師
羽上帆樽
第1章 人々
第1話
暗闇月夜は、その日、一匹の猫を拾った。
全身が真っ黒で、黄色い瞳が彼女をじっと見つめている。尻尾は今は垂れていたが、動き出したら魅力的そうだった。手の爪はあまり長くない。肉球は、意識できるほど存在感はなく、体重もあまり重い方ではなかった。どうしてかは分からなかったが、月夜は、彼の姿を見たとき、一瞬で、自分の家に連れて帰ろう、と決意した。その判断は、彼女にしては珍しい思考ルーチンを使って成されたものだから、月夜は、自分でも、自分の思考に驚いてしまった。そんなこと、自分にもできるんだな、と思った。
黒猫を抱えたとき、彼が小さな声で話した。
「俺を、拾うのか?」
猫が喋ったから、月夜は少なからず驚いた。けれど、感情が表に出ることはなかった。彼女は、どんなことが起きても、ほとんどの場合、表情が変わらない。それが良いことなのか、月夜は自分では分からなかったが、少なくとも、そういう人間が、少数であることは自覚していた。だから、ある意味価値があるかもしれない。価値があるものは、良いものだ、と月夜は考える。だから、自分は、良いもの、かもしれない。どちらでも良かった。とにかく、猫が尋ねてきたから、彼女は、素直に、その質問に答えた。
「うん」
「どうして、俺を拾う?」
「理由は、ないよ」月夜は、彼の黄色い瞳を見つめる。「拾いたいと、直感的に、そう思ったから、拾った」
「拾って、どうする?」
「私と、一緒に過ごしてほしい」
「お前は、家族は、いないのか?」
「そうだよ」
「俺と、家族になりたいのか?」
「名前は、なんでもいいけど、私の、傍に、いてほしい」
黒猫は月夜をじっと見つめる。その瞳は、ある種の恐怖を帯びていたが、月夜は彼を怖いとは感じなかった。それは、おそらく、彼女の瞳にも、そういった恐怖が含まれているからだ。正確には、含まれているのは恐怖ではない。恐怖は、あるものを見たときに、人が抱く感情だ。だから、恐怖そのものは、世界中のどこを探しても見つからない。月夜の瞳には、冷徹、という温度が含まれていた。恐怖は存在しないのに、冷徹は存在するのか、という質問を受けても、彼女はそれに答えられない。そんなふうに都合良く考えても、別に、誰にも文句は言われないだろう、というのが、彼女の基本的なスタンスだった(これでは通じない可能性が高いが、通じなくても良い、と月夜は考えている)。
「分かった、俺は、お前に拾われよう」暫くして、黒猫が言った。「あとは、好きにするといい。ただし、拾うからには、きちんと世話をしてくれ。そうでないと、俺は、きっと、お前のもとを離れて、別の飼い主の所に行ってしまう。そうならないように、注意するんだ。……お前の名前は?」
「月夜」
「分かった、月夜。俺は、フィルだ」
「よろしく、フィル」
「何も、よろしいことは、ない」
月夜は、たった今学校から帰るところだった。けれど、もう、とっくの昔に日は沈んでいる。時刻は午前一時だった。彼女は、多くの場合、夜まで学校に残って読書をする。それが彼女の習慣だった。どうしてそんなことをするのか、という問いには答えられない。そうしたいから、そうしているだけだし、そもそも、欲望の理由を考えるのはおかしい。理由は、いつも、人の行為を無造作に汚す。理由というものには、存在する価値がない。価値がないものは、この世界には存在しないが、それでも、どうしてか、理由にだけは価値がないように、月夜には思えた。
住宅街の隅で、黒猫がすやすやと眠っていたから、月夜は彼を拾った。可愛いな、と少しだけ思って、拾っても良いかな、と少しだけ思ったから、拾った。本当に、それだけにすぎない。彼が言葉を話すのは想定外だったが、それでも、可愛いかったから、そのまま家に連れて帰ろう、と瞬時に判断した。
月夜の両手に抱えられたフィルが、彼女の指を軽く舐める。
「お腹、空いているの?」月夜は歩きながら尋ねた。
「いや、空いていない。お前は、空いているのか? そもそも、どうして、こんな時間にこんな所にいる?」
「私も、お腹は、空いていないよ。どうして、という質問には、答えられないから、訊かないでね」
「分かった。じゃあ、訊かない」
闇に覆われた住宅街が、ずっと向こうまで続いている。
「俺は食事をしないんだ」フィルが言った。「ものを食べなくても、生きていける。俺は、もう、死んでいる。だから、普通の人間には見えない。けれど、お前には、俺の姿が見えた。だから、お前は普通じゃない。何か、思い当たることがあるか?」
「思い当たること、とは?」
「自分が、普通の人間ではない、と思える部分が、存在するか、という質問だ」
月夜は黙って考える。しかし、彼女は、性格も、性質も、多くの点が一般的ではなかったから、どこをピックアップするべきか分からなかった。
「私は、普通の人間じゃないから、君が言うような部分は、沢山存在する、と思うよ」
「ほう。たとえば?」
「私は、君と同じように、ご飯を食べない」
月夜がそう言うと、フィルは面白そうに笑った。
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