テファル国にて 5 清濁
◆◆◆
泥濘の中に全身を沈められている気分だ。
治安の悪い町の裏路地にある酒場の近くならば、俺が閉じ込められている空間を埋め尽くしている穢れたものに近いものが、地面に散らばっているだろう。
今の状態の俺に呼吸は必要無いはずだが、体内に取り込むことを拒絶したい程酷い臭気のある空気に包まれているようで、息苦しい。
アルハの身体がどれだけ快適か、思い知った。
いや、知ってはいた。アルハの身体と魂ほど澄んだ場所は無いと。
これまで比較することすら出来なかったものであるから、ここまで差がつくのかと感銘すら覚える。
俺の魂を囲っている魔物は、ずっと俺になにやら話しかけてくる。
片言とはいえ、人の言葉を理解し操る魔物は始めてだ。
以前、魔物化した元人間が人の言葉を発したことはあったが、会話は成立しなかった。
魔物は、俺がこの身体に馴染み溶け込めば、今より素晴らしい存在になれる、などと嘯いている。
こいつの魂は濁りきっている。これまでにも多くの魂を奪い、我がものとしてきたのだろう。
そのどれもが、融合を拒否してきたのは明白だ。でなければ、こんなに濁るわけがない。
俺の魂が少しも馴染まないことに、苛立ちを感じているようだ。
俺にそのつもりはなかったが、どうやら俺は自身を鍛え上げる中で、魂をも鍛えていた。
その鍛え上げた魂の強度が、この魔物に溶け込むことを拒否できている。
アルハから引き抜かれかけたときは、必死にアルハの元へ戻ろうとした。
しかし、こいつの力がそれほどでもないと感じた時、他の身体に移ることが可能ならば一度試してみようと好奇心が首をもたげたのだ。
アルハに伝えた言葉が足らず、心配をかけていることについては、俺も心が痛い。
そして後悔もしている。
こんな所には、もう少しも居たくない。
◆◆◆
異界で丸二日過ごし、三日目にラクに呼ばれた。
「ボロボロではないか。替えはないのか」
「ある。着替えるから、向こう向いてて」
ラクが何故か苦笑しながら背を向けてくれたのを確認し、無限倉庫から着替えを取り出す。
あれこれやる前に着替えておけばよかった。メルノが作ってくれる服は着心地が良いからついヘビロテして、すぐボロボロにしてしまう。
「冒険者の服はそういうものですから」
とメルノは言ってくれるけど、服を作るのって大変だし、できるだけ大切に着たい。
「何ぞ掴めたか」
「あー、うん。たぶん」
「随分曖昧だのう」
「加減の仕方は大丈夫だけど、全力の方はまだよく解らないかも」
軽装な方とはいえ、上着の留め具だけでも胸の前、袖、裾、肩といくつもあって、慣れていても時間がかかる。
もそもそと着替えている間、向こうを向いているラクと会話する。
「異界は頑丈じゃと言うたであろう」
「その異界から『これ以上は勘弁』って苦情がきた」
「はあ!?」
ラクが目を剥いてこちらを振り返りかけて、踏みとどまった気配がした。
異界で最初に全力を出した後は、調節の練習だけしていた。
どうにか目処が立ってから、もう一度全力を試そうと力をためている時だった。
はっきり聞いたわけじゃない。異界は明確な人の言葉を話さなかった。
ただ頭の中に、辛うじて何かの言語と分かる音が流れて、不思議なことに意味を理解できた。
「他に何ぞ話さなんだか」
「いや、それだけ。僕もやりすぎたかと思って止めといたよ。ラク、もういいよ」
着替え終わって声をかけ、改めてラクと向き合った。
「しかしそれでは、身体に障ったりせぬか」
「一気に全部出そうとするから駄目なんだって。小出しになら……って、僕の話はいいよ。そっちは?」
「イオが見張っておる。もうじきじゃ」
「それなら、行こう」
前回とは少し違う位置で、イオが待機していた。
「アルハ様、もう少しで行けます」
「ありがとう。僕が入ったら、一旦閉めておいて」
「えっ!? ですが……」
「多分、すぐ済む。いざとなったら自力で出る方法を探すから、大丈夫」
「イオ、こうなったアルハを止める術はない」
イオは僕とラクを交互に見上げて困り果てている。
確かに僕は、次元の裂け目を視る能力は無いし、今回と同じく次元の裂け目の向こうにある竜の里からだってひとりじゃ出られない。
でもそんなことは、ヴェイグを取り返しに行くことの前には些細な問題だ。
僕の決意が硬いことを察してくれたイオは、渋々ながら承諾した。
イオの予告した時間通りに次元の裂け目が現れた、らしい。
早速イオが何もない空間に手を入れて、左右に割り開いた。
その向こうには、あの蟷螂があのときのままの姿で佇んでいる。
「じゃ、行ってくる」
ふたりの返事を聞かずに飛び込んだ。
蟷螂はあのときのままだけど、周囲にはまた卵鞘がいくつもできていた。
蟷螂の頭部、人の女性の部分が耳障りな音を発すると、卵鞘からまた魔物がぞろぞろと這い出てくる。
邪魔だ。
この空間にも、地面以外の果てがない。
だからできるだけ高い位置に刀を創り、雷のように落とした。
魔物一体につき、数十本。
それで魔物は粉々になり、まだ孵っていない卵鞘も潰した。
蟷螂がまた声を上げる前に、蟷螂の周囲、身体に沿って数千本の刀を突きつけた。
蟷螂が少しでも動けば、針蟷螂が出来上がる。
身動きを取れなくした蟷螂の頭の下、首の付け根に、右手の人差指で軽く触れる。
「返せ」
魂を奪うやり方なんて知らない。
けど、こいつにできたなら僕にできてもおかしくない。
それにヴェイグなら、これで戻ってきてくれるという確信があった。
正解だった。
蟷螂が抵抗の叫びを上げる中、ヴェイグは僕の指を伝って、呆気ないぐらいするりとこちらへ抜け出してきた。
〝遅い〟
「ごめん」
〝冗談だ。よく来てくれた〟
いつもの飄々とした口調に、疲れが混じっている。
「寝ててよ。こいつ始末するから」
〝アルハ……では言葉に甘えさせてもらう〟
随分消耗していたのだろう。僕が
ヴェイグがちゃんと眠ったのを確認して、感覚も遮断しておく。
蟷螂の方は、針の筵ならぬ刃の筵のままだ。
新たな刀を創り出し、蟷螂の顔の部分の刀は消した。覗いた複眼が、僕をじとりと睨め付ける。
「殆ど八つ当たりなのは悪いと思ってる」
刀を複眼に突きつけて、話しかける。理解しているかどうかは、今の所関係ない。
「自分が許せないんだよ。あんな簡単に、ヴェイグを」
ヴェイグを取り返して、僕の力は元通りになった。
異界にやめてくれと言われた力は、今の半分だった。
ヴェイグを一時でも奪った蟷螂への怒りより、不甲斐ない自分への怒りが勝る。
だから、完全なる八つ当たりだ。
世界を壊したくはないから、力を刀の先に集めて、蟷螂に振り下ろした。
軽い手応えと共に、蟷螂の全身は塵より細かく崩壊した。
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