浅井久政、耽溺する

 ここで時は少しだけ遡る。











「あの馬鹿……!!」


 小谷城に、怒鳴り声が響き渡った。年を重ねているにしてはいやに甲高く、迫力の乏しい怒鳴り声。


 しかも、それを聞かせたい相手ははるか遠くにいる。




 織田と徳川による朝倉家の滅亡、そしてそれに長政が与したと言う話を小谷城で聞かされた久政は隠居部屋同然の存在である京極丸で、ほとんどひとり淋しく吠えていた。


「ところで本丸には雨森様と千名ほどの兵がおりますが」

「うるさいわ!」

「では大殿様の兵を督戦してまいります」


 その凶報を伝えた側近の今村掃部を追い払うと、久政は体を支える力を失い前のめりに倒れ込み泣き崩れた。


「色欲にかられおって……これでわが浅井はもう満天下の物笑いの種になるわ……ああ、どやつもこやつも、なぜ浅井が大名でいられたのかすら忘れおって……この家にはわししかまともな男はおらんのか……」




 本来ならば出兵とか言う時点で止めているべきだった。


 だが貞征や浅井政澄のような自分寄りの人間まで出て行くのを見てまず失望し、彼らが寝返ってくれると期待して少しだけ安堵した。


 その上で義景に使者を送りなんとかして息子を食い止め、その上で自分だけでも後方を突いて意志を示すつもりだった。







 ———―いや、実際に手紙を寄越していた。




「此度のわが子長政の暴挙は父親である我が身の不徳の致すところ。どうかこの浅井久政がぶしつけ極まる愚息を今一度しつけ直すべく粉骨砕身いたしますゆえ、何卒耐え忍んで下さいませ」




 その使が、一乗谷にたどり着く前にになった事を久政は知らない。




 朝倉家のために相当な額の路銀を持たせ、かつ織田や徳川の軍勢に見つからないように相当な遠回りをした結果、野盗に捕まり身ぐるみはがされて命も奪われていたのだ。

 ましてやその路銀が新領主となった織田家の人間、柴田勝家によって行使されたまったく真っ当な治安維持行為により、出所不明の金として織田の懐に入った事などまるで知らない。




「そんなにか、そんなに織田がいいのか……わしにはまったく理解できん……あんな大うつけに付いて行くのがそんなに楽しいのか……しかも聞いた話によればそれだけの事をやっておいて報酬はたったの十万石、しかも越前にばかり……!」


 両親が亡くなった時でさえ、久政はここまで泣く事はしなかった。ひとりっきりの京極丸の広間で、袴と床と畳を濡らしていた。


「美濃でも南近江でも、いくらでももっとむしり取ってやるべきだろうに……ああ、まったく無謀なくせに世間知らずの若造が…………!我が父よ、不肖の孫を叱って下され!父よ、父よ、父よ……」


 その泣き声を誰も聞いてない事についても情けなくなり、その分だけ目に水分が供給されて行く。


 この負の連鎖反応を止める人間も、やはり誰もいない。家系図も絵も手元にない事を知っているから何か形のある物にすがりつく事も出来ず、父と言う二文字をただ連呼する。










 浅井と言う家は、そもそも武田のような守護でも朝倉のような守護代でもない。元から小谷城を本拠とする有力国人ではあったが、その程度の家だった。


 百年前の応仁の乱により、北近江の守護大名の京極家の威は衰えた。その結果これと言った有力人物がいないまま内乱状態となり、ここぞとばかりに南近江の守護大名となっていた六角氏が攻撃を仕掛けて来た。

 その際に久政の父である浅井亮政が越前朝倉家に泣きつき、それに答えた朝倉家が兵を出したために六角家は後退を余儀なくされた。形はどうであれ朝倉家を動かした亮政の功績は大きく、朝倉家の力添えもあって混乱していた北近江の国人は浅井家の旗の下に集う事になった。


 長政が生まれた時にはすでにこの世の存在ではなかったとは言え、浅井に今の地位を与えたのは紛れもなく亮政であり、朝倉ではないのか。


 親不孝、いや祖父不孝。ついでに忘恩の徒。


 たかだか織田などのために、いや織田が寄越して来た嫁のために、それほどの称号を背負おうなど久政にはとても理解できなかった。



「まったく、近頃の若い者は、いや年寄りまでもが……」


 こんな当然の事を言っているだけなのに、背中をなでる人間もいなければ相槌を打つ人間もいない。


 長政に当主の座が移ってから九年が経つが、その間に小谷城の中で久政寄りの人間はじり貧とも言うべき形で減っていた。まだ四十五歳とは言え、しょせん隠居は隠居であり現役にはかなわない。


 もし力関係が同程度であれば、それこそ六年前のお市の輿入れすら拒否していたはずだった。実際その話が来たときに断れと長政に口を酸っぱくして言ってやったつもりだったが、本人以下誰も耳を貸そうとしなかった。


 その時に気付いていれば、そんな繰り言ばかりが久政の頭を巡る。







「おい!誰かおらぬのか!」

「はい、何か……」

「……酒を持って来い。茶碗一杯でいいぞ」

「わかりました」


 いっそ今からでも遅くはない、もし若い男手が出てきたらそれこそ本丸にでも突撃して息子をたぶらかした嫁の首でも叩き斬ってやろうと思っていた所に女、それも腰の曲がった老女しか出て来なかった事実は、久政をまた一段と孤独感にさいなませた。


 やがて彼女が律義に茶碗一杯分の酒を徳利に入れて持ってくると、徳利をひったくって口に付け、そのまま飲み干して叩き付けた。音だけは派手だったが誰もひるむ事はなく、ただ中身と同じ空っぽの音が響いただけだった。


「片付けよ……」


 ここまで簡単に酔うほど老いてなどいないはずなのに、なぜか急に酒が回る。


 これほどまでに朝倉が滅んだことが悲しく、そして悔しいのか。その上でその張本人たちである人間に対して何の鉄槌も下せない自分の無力が嫌なのか。いったいどれが本音なのかどれが言い訳なのかすら、久政本人さえもわからなくなっていた。




 そして久政は、雨森弥兵衛が率いる千名の兵が本丸にいると言う報告の意味も正確に理解していなかった。


 久政がもしここで自棄を起こして本丸にいるお市や万福丸や茶々たちを襲うような事になれば、それこそ久政はおしまいである。


 もっとも普段から久政の側にいた兵たちはこの時今村掃部の命により最悪の事態を起こさないように次々と武具を倉庫にしまい込んでいる状態であり、刀剣ですら十本もなかった。














(あのお方にも本当に困ったものだ……もういい加減この辺であきらめるべきだと言うのに……)


 適当な理由を付けて今村が久政の下から走り去ったのは、兵士たちの武装解除のためであり、本拠地である小谷城での浅井同士の内戦を嫌ったためでもあり、何より久政の名誉のためでもある。


 それでも自分さえ耐えていれば何とか最悪の事態だけは免れる、できれば早く病にでも伏せてそのまま死んでくれれば名を汚さずに済む。

 いっその事自分が腹を切る事になるのを承知で斬ってしまうべきかと言うほどまで今村掃部が追い詰められていた事もまた、側近扱いしていたはずの久政は知らなかった。







 久政の下にいた成人男性の反応は、この時三通りに分かれていた。


 まず大半はなぜわざわざ主君である長政に逆らおうとしているのだろうと言うむなしさに負けただの良民になろうとした者。

 二番目はなんとなく流されて来ただけでやはり同じように流される形で久政から離れた者。

 そして三番目に久政と同じように織田家に不審を抱きながら、この状況を見て利あらずと判断して手を引っ込めてしまった者。


 そして雨森弥兵衛の下にいた兵も三通りに分かれていた。


 ひとつは久政の頑迷さに失望し、本気でお市と長政の子を守ろうとしている者。

 ひとつは起き残された事に不満を感じこの際とばかりに手柄を立ててやろうとしている者。

 そしてもうひとつは単純に弥兵衛の譜代の家臣。




 言うまでもないが、量だけでなく質にも士気にも大差がありすぎた。


(徳川勢がこの辺りまでやって来た事をお忘れでもないでしょうに……左衛門督殿を追い込んだのはどちらかと言うとあのお方ですぞ)


 織田・浅井・徳川の三者連合軍の中で真っ先に引き上げたのは三河から来た徳川軍であり、真っ先にこの小谷城に姿を見せたのも徳川軍である。


 戦の詳しい経緯まではわからない今村掃部だったが、それでも浅井が木の芽城から動かない間に義景が死に、織田と徳川がさらに前進していたことまでは掴んでいた。織田がいくら大軍とは言え、徳川が動かなければそんな簡単に崩れるはずもない。

 義景と同じように、今村掃部もこの戦いに徳川が本腰で取り組むとは思っていなかった。漏れ聞こえる話によれば、いきなり本陣に突っ込んで朝倉勢を雲散霧消させ、その後も義景目指して駆けずり回り絶望した義景を自害に追い込んだらしい。


 織田は浅井と組む前から徳川と組んでおり、その気になれば今回のように徳川勢をまた差し向ける事もできる。


 いくら織田の大軍が控えていたとは言え、恐ろしい家だ。これと戦うのはあまりにも危険すぎる。久政方だけでなく、弥兵衛にくっついていた兵たちさえも徳川の名を恐れ出していた。浅井と徳川の関係を深め、この浅井のためにもその力を使ってもらえるようにしなければならないとなるのは当然だろう。


(ほどなく殿は徳川殿とも関係を結ぶだろう。まともな人間ならばあれを敵に回す恐ろしさに気付かないはずがない。だが大殿様には通じないだろうな……)


 久政は徳川家康などと言う人物の事は知らない。知ったとしても、「織田の同盟国」と言う時点で久政の頭は「あの男のしもべ」から動かなくなる。

 自分たち浅井がもう幾十年北近江二十万石にしがみついている間に、桶狭間の戦いから独立して数年の間に三河一国と遠江の半分近くを所有して四十万石近くになっている。もし仮に浅井と徳川が正面衝突となれば、浅井はまず勝てない。







 今村掃部がそうやって絶望している事も知らない久政は、ほんの一口の酒で横になっていた。横になりながらも自分だけが賢いのだと言わんばかりの顔をしてその目に映る壁や床、木目や畳を蔑んでいた。


「今村、朝倉は本当に終わったのか」

「わかりませぬ。ですが左衛門督様の遺児は男女とも行方知れず、少なくとも死亡は確認されておりませぬとの事で」

「とは言え左衛門督様の遺児は今年生まれたばかり、一番上の娘御もまだ十一歳。まったく、どこまで織田という男は非道であり、新九郎はどこまで近視眼的な男のか……」




 もし長政が近視眼的な男だと言うのならばそれはあなたに似たのだ、その言葉を今村掃部は飲み込んだ。




 長政が長政になったのは野良田の戦いの直後であるが、その前は浅井賢政だった。



 その賢と言う名前の由来は、南近江の六角義賢の賢である。名前を他者からもらい受ける事自体その家にひざまずいたも同然の話であり、武家としては屈辱である。

 徳川家康だって最初は今川義元の配下として元信の名を与えられ、自分で元康に改名し、そして今川と縁を切る意味で元の字を捨てて家康になったのだ。


 言うまでもなくこの命名の下になった縁談を勧めたのは久政であり、近江を二分とまでは行かないにせよそこまで大きな戦力差のなかったはずの存在に対してずいぶんと卑屈な態度である。

 しかも賢政の嫁に来た女と言うのが義賢の娘ではなく家臣の娘であり、それも七つも上の女と来ていた。秀吉とおねのように男の方が十個以上年上と言うのはともかく、こんなに年上の妻を押し付けるのは完全に見下している証拠でしかない。


 無論家臣団も賢政も反発したが、久政はこれで六角の支援が受けられると乗り気になるばかりでまるで耳を貸さない。それに腹を立てた浅井家臣団が賢政を煽り、本人もその気になって嫁を放り出し、その勢いで突入したのが野良田の戦いだ。この戦により久政は家督を下ろされ、今までずっと京極丸にとどめ置かれている。




 ――先ほども言ったように、かつて浅井亮政を攻めたのは六角なのである。その六角は浅井にとって最大の敵であり、まだ朝倉家から名前を受けるのならばともかくその敵である家から名前を受けるような真似をしたのが久政なのだ。

 いや何よりかにより、朝倉がかつて浅井を大名に仕立て上げたのは六角から守るためであると言う時点で、朝倉と六角の仲のほどは推して知るべしだったはずだ。


(織田と言う名前は思いつかなかったにせよ、せめて朝倉家から嫁を貰って景の字をもらい受けるぐらいの判断をしても良かっただろうに……)


 自分だってあの婚姻に腹を立ててはいたが、その自分までいなくなったらもう久政は何をするかわからない。せめて自分だけでもこの外交その他に失敗して隠居に追い込まれた馬鹿な男を守ってやらねばならない。久政のためにも、長政のためにも、何より浅井のためにも。


「おい今村、あの親不孝者の首根っこを引っ掴んで来い。朝倉の恩を寝かさず一から万までゆっくりと言い聞かせてやるからな」


 まったくへべれけでも何でもないはずの久政は、大笑いしながら誰も耳を貸しようもない命令を今村に申し付けた。そして誰も自分の側に立って人の息子を親不孝者に仕立て上げた不埒な嫁を襲いに行く人間がいなくなった事にも気付かないまま、疲れだけによって寝てしまった。







「それで、誰か朝倉の跡目は残っているのであろうな、と」

「織田家に投降した朝倉景鏡殿が当主となりましたとお伝え下され」




 独り相撲と本城の中での不毛な対立が行われてから数日後、戦後処理を終えて帰城した長政への詰問さえも久政は今村掃部に丸投げし、その数少ない家臣から長政の言葉をそのまま伝えられても特に何の反応もする事はなかった。


「ああそうか、残っているのか、朝倉は……よりによって織田のしもべとしてか……ったく織田め、どこまでこのわしと新九郎を惑わせるのだ……」


 朝倉の最悪とも言える生き残り方を知り、その上で織田家への憎悪を口にするたび、顔の血色がよくなって行く。織田への憎悪と朝倉への依存、あとそれを満たせる力への渇望だけが、今の久政をかろうじて現世の人としていた。

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