新規に書く方が楽なのに……

亜逢 愛

時間をかけてまで、なぜ落選作品を公開するのか?

 私はこのカクヨムにて幾つかの作品を公開している。


 その数は新規作品よりも、手直し作品の方が多い。と、言うより、長編は手直し作品だけである。

 私の言う手直し作品とは、公募に落選して手直しをほどこした作品を指している。


 そして、公募に落選した状態では公開したくないと思っている。それは、無様ぶざまな姿で作品をさらしたくないからだ。


 なので、手直しをするのだが、これには思った以上に時間がかかる。新規に書くよりも、完成までに時間がかかっていると、以前から感じていた。


 なぜ、時間がかかるのか?


 それは、手直し前の作品を読んで理解し、どう手直しするかを考えなければならないからだ。




 作品とは、作者が並べた文章の連続体である。


 例えば、1つ文章を野球のボール1個と考えてみる。

 すると、作品とは作者が並べたボールの連続体と言える。


 ただ、ボールを床に並べるだけでは整列しないので、1本の長いといの上に乗せて並べることにする。


 そして、樋には比例的に高低差がついており、樋の一番低い一端には止め具があって、最初のボールがその位置で止まるようになっている。

 次のボールを樋の上に置くと高低差によって転がり、最初のボールに接触して止まるのだ。


 このように樋の上には、文章を載せたボールが隙間なくつながった1本の連続体ができる。

 これを作品と考えた。


 また、必ずしも樋は一直線である必要はなく、渦を巻いたり、ジグザクだったり、もっと高低差を付けて螺旋らせん状であったりと、ボールを順序だてて連ねることができれば、その形状にはこだわらない。


 とにかく、枝分かれがなく、交差を伴わない一筆書きのように、ボールが並べばよいのだ。


 新規作品であれば、作者は考えた文章を手元に用意したボールに載せて、その樋の上に置いていけばいい。ボールは樋の上をコロコロと転がり、一番低い端から順序よく並び、隙間のない1本の連続体が出来上がっていくという訳だ。


 しかし、手直し作品の場合は違う。過去の作品を読むというアクションが追加されるのだ。


 過去作品もボールの連続体である。


 ここで、過去作品を読むという行為を、どう例えればよいのか?

 樋の上に並んだボールを眺めていくだけで、読んだと認めてよいのだろうか?


 弱い気がした。

 文章を野球のボールに例えた意味も薄れてしまう。


 野球のボールは投げる・打つ・取るが基本的な使い方だ。

 だが、打つは飛んでいく方向に不確定要素が多い。読むというアクションには不向きと思ったので除外することにした。


 なので、投げる(投球)と取る(捕球)を使って読むを表現する。

 1人では投げると取るを同時にできないので、過去の自分、書き直そうとしている過去作品を書いた頃の自分に登場してもらう。


 過去の自分が過去作品の連続体から、ボールを1つ取り出す。そして、そのボールを投球し、現在の自分が捕球する。

 これを連続的に行うアクションを、過去作品を読む行為と考えたのだ。


 どこか暗い所に過去作品の連続体があり、その暗い所から過去の自分がボールを投げてくるのだ。

 うまく捕球できれば文章を理解したということになる。


 ここで暗い所というのは、あらかじめ作品の全体像を現在の自分に把握させないためである。

 過去の作品にとらわれ過ぎると、うまく手直しができない、という私の経験則からきている。


 そんな暗い所から、過去の自分がボールを投げてくるのだが、コントロールがいいとは限らない。

 強過ぎたり弱過ぎたり、左右にれたり上下に逸れたりと、必ず捕球できる訳ではない。

 つまり、言葉を伝えるのがなのだ。


 捕球できずに落したボールは、その文章を理解できなかったことになる。拾いに行くこともあるだろうが、多くは捨て置かれてしまうのだ。


 そして、捕球したボールは現在の自分によって、新たな樋の上に乗せていく。ボールは樋の上を転がり、新しい連続体が形成されていくのだ。


 捕球したボールの文章を直さないのなら、そのままボールを新たな樋の上に乗せていけばいい。

 それは手直しのない文章だ。


 そして、捕球したボールや、捕球そのものに違和感があったり、気に入らなかったら、手直しした文章をボールに載せて、新たな樋に置くのだ。

 文章の修正である。


 しかし、捕球したボールを新たな樋に乗せるのをやめたり、一時的に手元に置いておき別のボールを乗せた後に乗せたり、すでに樋に乗っているボールの間に入れ込んだりもする。

 これは削除や順序の差し替えだ。


 さらに必要に応じて、新規作品のように、新たに考えた文章を手元に用意したボールに載せて、樋に置くこともする。

 文章の追加である。


 加えて、複数のボールを捕球してから、総合的に判断することもある。


 また、過去の自分が作品の冒頭から順番にボールを投げる必要はない。樋の途中にあるボールから投げてもらうこともあるだろう。

 その時は、新たな樋の途中に止め具を設けて、ボールをストックしておき、後に順序を調整すればよいのである。


 このように、過去の自分が投げたボールを捕球しては新たな樋に置いていく、というアクションを繰り返す行為を作品の手直しと考えたのだ。


 この時、捕球したボールを何も考えずに樋に乗せることはない。手直しをする/ しないを考え、するのならどんな風に直すのかを考えている。


 この考える時間も、捕球する時間とともに新規作品にはない。完成までにかかる時間を増やしているのだ。


 こんな風に考えていくと、新規作品のように考えた文章を手元に用意したボールに載せて、ポンポンと樋の上に置いていく方が、なんとも早いのである。


 新規作品には準備期間もあるが、私の場合、捕球する時間と考える時間は、それを凌駕りょうがしているのだ。


 そんなことに気付いてくると、公募に落選した過去の作品を手直しするよりも、新しく書いていった方が、ずっと楽だと思えてくる。



 なのに、なぜ、楽でもないのに、時間をかけて落選作品を公開するのか?



 その作品は面白いという自信があったり、個人的に気に入った設定や表現を施していたり、思い通りに描けなかった後悔があったり、はたまた、このアイデアは自分が考えたのだ主張したかったりと、その作品に『特別な思い入れ』が私にはあるからだ。


 そのひとくくりにした『特別な思い入れ』とは、いったい何だろうか?


 その作品が好きとか、その作品がもったいないとか、その作品を多くの人に読んでもらいたいとか、そんな感じに考えてみたものの、俗っぽくてしっくりと来なかった。


 そして、作品をボールの連続体として考える例えがひらめいた時、その答えが垣間かいま見えたのである。


 読むを捕球と例えてみると、想像以上に実感があったのだ。

 捕球した感触、ズバンと受け取った時の心地よさ、てのひらにジンジンとくるボールの硬さ、その速さや勢いが骨にまで伝わってきたのだ。


 そんなボールを投げたのは、紛れもなく自分なのである。


 この捕球という点で、何か過去の自分をつかみ取ったようなあたたかみを私は感じたのだ。


 その温かみから、私の『特別な思い入れ』とは、その作品を『いとおしく思う気持ち』から起きていると、気付いたのである。


 つまり、『作品への愛情』こそが、時間をかけてまで、落選作品を公開する理由だったのだ。


 私の公開作品は『作品愛』の結果だったのだと、つい最近になって気付いたというお話でした。ペンネームが愛だけに……。(在り来たりな落ちですいません)


 きっと皆さんが書いていらっしゃる作品にも、たくさんの愛が溢れていることでしょう。



おしまい



【現在、カクヨムにおいて読むことを控えてまで、『姫毒』という公募落選作品の手直しをしておます。6月末か7月始め頃には公開を開始できると思います。しばらくお待ち願います。また、このカッコ内の文章は、その作品を公開した後には削除する予定です】



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