第25話 【線路と少年】SFPエッセイ125

 あなたのそばにはいつも守護天使がついている。

 守護天使がいてあなたのことを見守っている。

 もっとも、その存在にあなたが気づくことはないだろう。

 息苦しくて仕方ないだろうからね、

 そんなものがいつもそばにいると感じたら。

 

   *

 

 本題に入る前に、すこし余談から。

 

 幼い頃わたしは頭が足りない子どもだと思われていた。人と目を合わすことがなく、まったくしゃべる気配もなく、天井の隅を何時間も睨みつけ、股間をいじくりまわしてその指の匂いを嗅いでいる子どもを、大人は頭が足りないと呼ぶ。

 

 両親はわたしを「まとも」にしようとした。自力で「まとも」にできると考えていたらしい。あるいは「まとも」でない子どもを表に出すことに抵抗があったのかもしれない。両親はわたしを外に出さないようにし、家の中でわたしに何か「まとも」なことをさせようと努力した。血の滲むような──主にそれはわたしの血だったが──努力をした。

 

 わたしは親以外の人間を一切知らなかったから、親と家の中が世界の全てだったから、何かを疑問に思うこともなく、そういうものとして成長した。それが世間から見て異常な状態ではないかなどと考えることは、子どもにはできない。ほかに比較する材料が一切ないのだから。それが世界の全てなのだから。

 

 わたしが家の外の世界を知ったのは、病気になって病院に運ばれたときのことだ。高熱のためまわりの状況はよくわからなかった。けれど鮮烈な印象が残っている。

 

 わたしは自分が家のドアを出て、恐ろしく広い空間に出たことを感じた。恐ろしくというのは比喩ではなく、わたしは壁がまったくない巨大な空間に恐怖を感じていたのだ。次にやたら狭い空間に閉じ込められた。それは父の運転する車だった。それからまたしても広い空間に出て、やがて壁と天井と床のある大きな空間に入った。そこでわたしはおびただしい数の人間を見て驚愕した。そこは病院で、その場には医師、看護婦──当時は看護師の大多数は女性で看護婦と呼んでいた──患者、付き添いなどの人々がいたのだ。今から考えればそれは「おびただしい」というほどの人数ではない。けれども、両親以外に人間を見たことがなかったわたしにとっては、世界像が完全に崩れ去るような体験だった。

 

 世界が変わる体験というものは、そんなささやかな出来事の中でだって起きる。例えば「家を出て車に乗って病院に行く」というような、ごくありふれた、多くの人にとってはつまらない日常的な行動の中でだって世界が変わる体験ができるのだ。考えてみればわたしが言いたいことはこれだけだ。ここで書くことをやめたっていい。

 

 ある意味で、あれが、わたしが「生まれ直した日」だったと言えるだろう。

 

 わたしは、その後も何度も生まれ直した。いまこうして人々の前に出て行く決意を固めたのが、言って見れば最新の生まれ直しだ。その前では、初めてプリマドンナに声をかけた日も生まれ直しだったと言っていい。もちろん、世を捨て、オペラ座に住み着くと決意した日も生まれ直しのひとつだ。今から思えばオペラ座での暮らしそのものが、何年間にも及ぶ胎内回帰だったとも言える。

 

 けれど、わたしの人生で最も重要な生まれ直しは10歳のある1日の出来事だ。

 

   *

 

 10歳の時、わたしは一人で遠出をして大騒ぎを引き起こした。その頃もわたしは引き続き頭が足りない子どもだと思われていたが、外で遊ぶことが許されるようになっていた。家は山間部の小さな町の町はずれにあって国道に面していた。子どもにとっては恐ろしく幅の広いその道を渡ると、すぐ目の前に石垣がそびえていた。石垣の手前には一年中、草がぼうぼうと生い茂っていた。冬ですら丈の低い草が密生していた。草むらを横切って石垣に近づくと、そこには小さな階段があって、登るといきなり線路際に出た。

 

 いまでもあんな危険な場所が残っているのだろうか。階段を登ると、柵も何もなくただそこに線路があった。砂利が敷かれ枕木があってレールが伸びていた。小さな子どもでも簡単に登れる場所だったが、線路と人を遮るものは何もなかった。階段を上りきって右手を振り向くと鉄橋が見える。ここからはるか太平洋まで伸びる一級河川をまたぐ鉄橋だ。線路から見る景色は素晴らしかったが、裏返して言えば、下からも丸見えだ。

 

 反対側は両脇に森が迫っていて、下から見られる恐れがなかった。だから、いつもわたしはそちらに進んだ。200メートルも進んだ辺りだろうか、線路は山の形に従って大きく右にカーブしていた。そこからさらに深い森が始まる。カーブは急で、列車はそこでスピードを落とさなくてはならなかった。川をまたぐあの鉄橋あたりから徐々にスピードを落とし始め、カーブに差し掛かる頃にはほとんど停止しそうに見えた。

 

 その日わたしが飛び乗ったのはコンテナの載っていない、台車だけのコンテナ車だった。前方に柵とハンドルがついていて、わたしはそこにしがみついた。小さな子どもがしゃがんでしがみついていてもそれほど目立たなかったらしく、わたしを乗せた貨車は森を抜け、村を通り過ぎ、再び森に入り、小さな町を駆け抜けていった。柵にしがみつき、時折は立ち上がってハンドルを持って運転しているような気分を味わい、恐ろしいほどの速さで吹き付ける風を浴びて、わたしは運ばれていった。

 

 クッションも何もない床の上に直に座り、激しい振動を受け、晴れれば日差しに灼かれ、曇れば激しい風に吹きまくられ、喉は渇き腹が減り、今から思えばそれは苦行でしかなかったはずなのだが、わたしには無条件の喜びに満たされる体験だった。今思い出しても幸せな気持ちが胸に満ちてくるような忘れられない体験だった。

 

 わたしはコンテナ車の上の小さな10歳の子どもだったが、その時わたしはコンテナ車の上にはおらず、森にいて、村にいて、町にいて、大地にいた。運転士の真似をするハンドルの前の10歳の少年だったが、貨車を運転する運転士になって、コンテナ車そのものになって、前後に永遠のように長く続く線路の全体になっていた。激しい風に吹きまくられ息もできないちっぽけな少年だったが、風になって、日差しになって、世界そのものになって、いつまでもどこまでも運ばれていたのだ。

 

   *

 

 これが、プリマドンナたちに話した話の全てだ。それを聞いて彼女たちがどう理解したのかは知らない。ある者は「出演者、演奏家、観客の全てを含めた劇場と一体になることができました」と嬉しそうに報告してくれたし、ある若い女は「線路が見えました。もう大丈夫です」ときっぱり宣言した。何年も経って引退してから、わざわざわたしの元を訪れて「あの話、なんのことだかさっぱりわからなかったわ」と愚痴を言いに来た元プリマドンナもいる。わたしは彼女のことが大好きだ。彼女はこうも言った。「おかげで他の細かいことに悩む暇がなくなってよかったわ」と。

 

 わたしは守護天使でいたいと願ってきた。けれどどうしたわけかわたしには「怪人」という不名誉な名前が付いてしまった。だからそれを返上すべく表に出て行くことに決めた。すると何ということだ、わたし以外にあと2人もオペラ座に住み着いていた者がいたそうではないか。道理で変な誤解がときどきあったのだと今更ながら苦笑する。まあいい。

 

 3人を区別するためわたしに与えられたニックネームは「線路と少年」だ。悪くない。これはいい。後の2人のニックネームは確かオペラか映画のタイトルだったと思う。ひょんなことから3人でトークショーをやることになった。人前に姿をさらすことを避けてきた3人がいったい何を話せばいいのか見当もつかない。しかし、表に出ることにしたのだ。腹をくくろう。生まれ直したてのわたしの声を聞きにきていただきたい。

 

(「【線路と少年】」ordered by 畔上 昭仁 -san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・ニック・アダムズなどとは一切関係ありません。

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