第23話 【マエストロの悩み】SFPエッセイ123

 朝暗いうちに目を覚まし、ひとり裏山に登る。

 

 山の入り口は真っ暗だったが構わずにずんずん登る。登るうちにだんだん空が明るくなってくる。山腹の途中にある見晴台のところで朝焼けが始まる。空の縁が明るさを増し夜空を追い上げる。たなびく雲が順に赤く染まりだす。その場にとどまって眺めるか、山頂を目指すか。登り続けることにする。

 

 途中、朝焼けが頭上を追い越して西の空に及ぶのを見て足を早める。山頂に着くとマエストロがいる。

 

「来るんやないかと思うとったで」

「はい。来ました」

「今日は帰りが大変やで」

「なんでですか」

「そのうちわかるわ。ほら、これが見たかったんやろ」

 

 マエストロに促されて空を見上げる。東の空の低い位置から広がり始めた朝焼けは刻一刻と色を変え明るさを変え全天を染め上げている。風が強く雲がどんどん流れていく。淡青の空を背景に、ピンクやオレンジに輝く巨大な雲があちこちに聳え、やはり赤々とした筋雲が無数に空を埋め尽くして行軍している。その手前の低い空を黒いずんだ雲が猛烈な勢いで流れている。

 

「ああすごい。すごいですね! マエストロ」

「『前須さん』でええさかい、な」

「これはすごい。なんて綺麗なんでしょうマエストロ」

「『太郎さん』でもかめへんねんで」

「うおお! 虹です! あっちには虹が出ています、マエストロ」

「ああ、虹な。よかったな。そのマエストロたらいうの止めてんか」

 

 顔を出す直前の太陽が上空の雲だけを輝かせている。低い位置を速いスピードで北へ北へと流れる雲は、まだ光を浴びられずに薄墨を流すようだ。そんな雲が雨粒を運んでいるのか虹が姿を現す。もっとも虹の一部分だ。虹の弓の右の足元部分だけが、すらりと立ちあがっている。太陽を背にし、北西の、ちょうど湖の方角だ。

 

「マエストロ。ラヴァッジョ・ディ・ピエディ湖から龍が昇っているようです」

「洗足池な。あっちにあるんは、洗足池やからな」

「昇竜とはまさにああいうことではないでしょうか、マエストロ」

「せやなあ。そうかもわからんな。前須さんでお願いしますわ、ほんま」

「ああなんてすごいんでしょう。うおお!うおおおおおおお!」

 

 わたしは天からも地からも何かが身体に流れ込んで、力がみなぎるのを感じる。なんということだろう。昨日までの悩みがするするとほどけていくようだ。

 

「あんさん、朝から元気やなあ」

「なぜでしょう? なぜこんなに力が溢れるのでしょう? マエストロ」

「なあ、それ前須太郎を呼び捨てされてるみたいで気になるんやんか」

「なぜでしょう? マエストロ」

「まあええわ。雲は、でかいからよろしいんやろな」

「デカイカラ?!」

「わかるか? あの雲なんか、めっちゃでかいねんで」

「あのピンクの、戦艦スターデストロイヤーみたいな雲ですか?」

「それはようわからんけど、あれなんか山が一個浮かんでるみたいなもんやねんで」

「では、エグゼキューター級のスペースシップ、スター・ドレッドノートくらいのサイズでしょうか」

「それもわからんけどな。まあ、そういうこっちゃ。でかいねん」

「実にでかいですね、マエストロ」

「太郎さん、な。せめてさん付けにしよ」

「サンヅケ?!」

「まあええわ。空を見上げるだけで、都会におっても大自然を見ることはできんねん」

「大自然を、都会にいても! マエ……」

「前須太郎な、ほんま頼むで」

 

 時折こうして山に登り、マエストロに会って教えを乞う。わたしは確信を持てない。マエストロは実在するのだろうか。わたしの脳内にしか存在しないのではないか。いつ来てもマエストロは必ずいる。こんな山の上にいつでもいるなんて、そんな仙人みたいな人間が実在するとは考えにくい。けれどこうして山に登ると、そこには必ずマエストロがいて、わたしの心の中につっかえていたものを洗い流してくれる。

 

 壮麗な朝焼けが終わり、一瞬太陽が辺りを照らすが、すぐに雲に隠れてしまい、どうということのない曇天になってしまう。あれほど光と色が溢れていたのに、いまはもう灰色の空と下の冴えない風景だ。

 

「今日もありがとうございました。マエストロにはいつも悩みを解消してもらっています」

「いやいやいや。わしは何もしとらんで」

「ご謙遜を」

「ほんま、何もしとらんし」

「マエストロでも悩むことはあるのでしょうか」

「悩み? まあ、強いて言うたら。わけのわからんこと言う人が来て……」マエストロはそこで言葉を切って、しばしわたしの顔を眺めてから首を振って言った。「ないことはないけど、まあええわ。言うてもわからんやろから」

「さすがです。マエストロ、さすがです」

「なにがやねん」

 

 下山の途中で雨が降り出す。最初は静かに。やがて激しく。そしてマエストロの言葉を思い出す。「今日は帰りが大変やで」このことだったのか。さすがです、マエストロ、さすがです。あのマエストロの悩みとは何なのだろう? わたしがお役に立てればいいのだが。もっともっと足しげく通えるようにできればいいのだが。

 

(「【マエストロの悩み】」ordered by 中嶋 千恵 -san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・勇者ヨシヒコなどとは一切関係ありません。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る