第21話 【残暑お見舞い】SFPエッセイ121
こんな時期になって残暑見舞いが届いたので、驚いた。そして、残暑見舞いっていつまで送ることができるのだろう?と、改めて調べてみた。すると、暑中見舞いから残暑見舞いに切り替えるのが立秋だというのは決まっているが、いつ頃まで送って良いか、終わりは特に決まっているわけではないらしい。
慣習として8月いっぱいとされているようだが、考えてみれば始まりが立秋ならば、新暦の月末ではなく、二十四節気で決める方が自然だ。立秋の次は処暑で「暑さが峠を越して後退し始める」という意味だそうだから、そのあたりはまだ残暑と言っても良さそうだ。その次は白露と言って「大気が冷えて露が降りるようになる」という意味なので、さすがにもう残暑とは言えまい。ましてや秋分にかかってしまうとさすがに無理があったろう。
しかし気候がここまで変わってしまうと、「そもそも二十四節気によると……」なんて言っても説得力がない。
かつては1日の中で最高気温が25℃以上なら「夏日」と言ったそうだが、もはや死語となっている。越えない日の方が珍しいからだ。ちなみに30℃以上なら「真夏日」と言ったそうだが、これまたピンとこない。年中時期を問わずに発生する現象なので、「真夏」と言われても説得力がないのだ。そんなことを言ったら1月の終わりから3月の初めにかけての短い期間を除けば1年中「真夏」になってしまう。
その点、「猛暑日」という音葉はいまなお使うことができる。これは最高気温が35℃以上の日を示すことばだ。気候の方は変わったが、人間の身体の方はそのままなので、35℃以上なら猛暑だと感じる。だからこの言葉は生きている。これまた調べたら2007年の4月1日に制定された用語らしい。つまり21世紀初頭に生まれた用語なのだ。逆に言えば、それより以前はそんな言葉は必要なかったことになる。こんなところにも、気候変動の軌跡を見て取ることができる。
それがいまや40℃以上の「酷暑日」、45℃以上の「烈暑日」だ。もうこれ以上ことばが増えないことを祈るばかりだ。
*
すっかり忘れていたが、21世紀の最初の5分の1はおおむね「地球温暖化」と呼ばれる現象が進行していた。それから〈大災厄〉が起きて、環太平洋の複数の火山の噴火によって全地球規模で太陽光が遮られ、即席の氷河期が訪れた。寒さと食糧危機、そして原因不明の病気によって地球上の全人口が半減した。その間生き延びるために我々はあらゆる燃料を燃やし尽くし、いわゆる温暖化ガスを大気中に溜め込みに溜め込んだ。大気圏内の火山灰が地表や海中に定着し、太陽が再び顔を出すようになると、世界は一気に灼熱地獄へと向かった。
その全てが21世紀中に起きたのだ。
火山の破局的噴火、隕石落下、巨大な地震や津波、といった桁外れの自然現象が地球の環境を決定的に変えて、恐竜を絶滅させたり、全世界規模で飢餓や病気を蔓延させたり、例えばフランス革命のような世界史を変える出来事の引き金となったり、そういうことがあるという事実はとっくに知れ渡っていたはずだが、知っていただけで、〈大災厄〉が現実に起きると人類はなんら有効な対応をとることができなかった。
いやいや。上の世代に文句を言っても仕方がない。
人類はせいぜい数十年しか生きられない生物だ。身体感覚として想像できる時間は長くてせいぜい100年というところだ。何千年に1度、何万年、何十万年に1度しか起きないような現象にまではとうてい頭が回らない。我々は自分の人生の中で体験した。だから語ることができる。けれど、それを体験する前の上の世代に、そんなことを求めても無理なのだ。
だとしたら、人間の想像力なんて何の役に立つ? と、ついついぼやきたくもなる。わたしは趣味で古い書物や映像作品を集めているので、あの〈大災厄〉以前の小説や映画の中でも、何度も巨大な災害や戦乱が描かれていたことを知っている。なかなか悪くないものもあるが、「え、それっぽっちで巨大な災害だと思っていたの?」と拍子抜けするようなものも多い。スケール感が全然乏しいのだ。
もっとも、地球そのものが砕け散るような自然現象を設定してしまうと人類が滅んでしまい、地球上でのドラマは成立しなくなる。惑星が崩壊するなら脱出劇が描けるが、銀河が消滅するような物語では共感を得られる物語は作りにくい。だから、ストーリーの都合に合わせて「このくらいのスケールが丁度いい」と手を打たざるを得なくなる。そういうわけで、小説や映画に見られる災害は「お話にとって都合のいいスケール」にとどまることになる。
創作家の手による作品としてはそれが限界だったのかもしれないが、だったらせめて科学者たちは、制約なしに想像力をもっとフルに羽ばたかせてもよかったのではないか。そう思うのだが、わたしが知る限り、ほとんどの科学者たちの想像は創作家たちよりも貧困だったようだ。リアリストを自称する人々が口にした「現実的な想定」とは、つまり発想の限界、想像力の貧困さを意味していたように感じられる。
まあ、それも一種の後出しジャンケンのようなものだ。わたしは〈大災厄〉経験者だから言えるのだ。上の世代を責めるのはやめにしよう。彼らには所詮無理だったのだ。そして、わたしにしたって、もっと後の世代からは「偉そうなことを言っていたくせに何もわかっちゃいない」となじられるかもしれない。そういうものなのだ。
*
21世紀初頭に始まったSudden Fiction Projectの後継者のひとりとして、わたしもまたささやかな創作を行っている。創始者アカヒロはあの混乱期に姿を消してしまったので、本当のところアカヒロがプロジェクトを通じて何をしたかったのかわからないが、わたしは上記のような考えのもと「ものがたりの制約にとらわれずに想像力を限界まで羽ばたかせよう」と提唱した。幸いなことにその考え方は世界中に賛同者を得て、ささやかながらひとつの文芸ジャンルを築くことができた。〈大災厄〉のおかげだ。
地球上に存在しない言語による作品、分割不能な極小サイズよりも小さな世界の話、生命体としての銀河の大河小説(大銀河小説)、その中には人類そのものを破滅に追い込むような数々のアイディアが登場してきた。ある時期からわたしは、それらの桁外れな設定をもとに、それが今を生きる我々にとってどういう意味を持つのかを描くようになった。いわば二次創作ばかり書いている。
わたしたちが経験した〈大災厄〉とは何だったのか。この先起こるかもしれない次なる〈大災厄〉に対してわたしたち一人ひとりはどう立ち向かうのか、あるいは立ち向かわないのか。ひたすら考えを巡らせている。言うなれば、銀河消滅から家具倒壊までの間のどのサイズまで──これは最近作で記した表現だ──どのサイズまで対応すべきなのか、どのサイズからは考えなくていいのか、それを探っているとも言える。
今日届いた「残暑お見舞い」と認められたはがきの送り主は、本人が言うにはSudden Fiction Projectの創始者アカヒロを知っているそうだ。嘘か本当かはわからないが、アカヒロの作品につけたという曲がいくつもクラウド上に存在しているのでどうやら本当らしい。彼または彼女は(全て女声のヴォーカロイドが歌っているので女性ではないかと睨んでいる)、いまも創作を続けている。わたしが詩のような形式で作品を書くとそれにも曲をつけて送ってきてくれるのだ。ちなみに今回の残暑見舞いと一緒に届いたのは先日書いたばかりの「銀河から家具まで」だった。
もうまもなく22世紀がやってくる。かなうことなら、22世紀には「酷暑日」、「烈暑日」ということばがなくなっていることを願う。そう、どうせなら「夏日」や「真夏日」ということばが復活するのもいい。「猛暑日」はなくなってもいいかな。そして、時期を迷うことなく、暑中見舞いや残暑見舞いをやりとりできるようになるといいのだけれども。
(「【残暑お見舞い】」ordered by Tomoyuki Niijima -san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・映像作品などとは一切関係ありません。
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