第6話 【交付金】SFPエッセイ106

 夜会だなと思う。

 

 違う。

 

 厄介だなと思う。

 

「厄介だなと思う。」と入力しようとして、kを一つ打ち損ねて「夜会だなと思う。」と誤入力してしまった。夜会? 夜会だと? 夜会なんて言葉、なかなか使わない。使いますか? 「今日は夜会がありまして」なんて。使いませんよね? 使うとしたら中島みゆきくらいだ。中島みゆきがどうしたという感じだ。ほんの数分前まで、中島みゆきのことなんかちっとも考えていなかったのに、いきなり中島みゆきの話になってしまった。でもまあ中島みゆきならまあいいかとも思う。

 

 何が言いたかったんだっけ? ああそうそう。厄介だなという話だ。

 

 わたしにとって怒りはエネルギー源になる。わたしが踊る根拠の一つは怒りだ。もちろんそれだけではない。喜びを伝えることもあるし、慈しみの思いで踊ることもある。けれどもそういうのは、なんて言うのかな、ルーティンな気がするんだ。よくあるもの、というか、どこにでもあるもの、というか、そんじょそこらにあるもの、というか。

 

 たとえばそう。ことばを使って創作する人にとっての日常のことばって気がするんだ。詩だとか小説だとか創作されたものは、いままで書かれたことがないものをめざしていると思うんだ。いままで書かれたことがない内容かもしれないし、いままで書かれたことがない考え方かもしれないし、いままで書かれたことがない文体かもしれない。

 

 とにかくいままで書かれたことがないことばは創作だ。でも、日常生活で発せられる「おはよう」とか「いただきます」とか「ただいま」にはそんな意味合いはない。創作の中で、いままで誰も使ったことがないような意味を込めて「おはよう」ということばを使ったらそれは創作だけど、わたしたちが日常的に発する「おはよう」にはそんな意味は、ない。

 

 喜びや慈しみや親しみの踊りは、そういう日常的な「おはよう」のようなものだと、わたしには思えてしまう。少なくともわたしの踊りはそうだ。わたしが踊りを通じて想像していると感じられるのは怒りや悲しみや恨みつらみ苦しみを元に踊るときだと思う。負の感情や破壊的なエネルギーがあるときだけ、世界のどこにもない新しいものを生み出していると感じられる。

 

 わたしの性格が悪いのかな。ほかの、表現に携わっている人たちはそんなことは思わないのかな。中島みゆきならわかってくれそうな気もするけれど。

 

 でもね、最近それがちょっと難しくなってきちゃったんだな。というのは困ったことに怒りや悲しみの量よりも、喜びや慈しみの量の方が上回ってきてしまったからなんだ。そこでわたしは考える。怒りや悲しみはわたしの交付金だったのだろうかと。わたしのステージを支えてくれる人がよく国の文化芸術交付金について話をしてくれて、わたしはそっちの方のことはイマイチわからないのでいつも聞き逃していたのだけれど、彼が言うには交付金は諸刃のヤイバだという。

 

 資金のないアーティストやカンパニーにとって、交付金は公演を実現する上でとても助かるものなのだそうだ。けれども交付金ありきで制作することになれると大変なしっぺ返しに遭う。いつか交付金が出なくなったり廃止されたときに表現の手段そのものを失ったかのように勘違いすることがあるというのだ。

 

 負の感情や破壊的なエネルギーという形での交付金の支給は薄くなってしまった。ではわたしはどうすればいいだろう? ポジティブな感情や思いを交付金に変えられるか試すべきなのだろうか? だからわたしは結婚したり子供を産んだりしたくなかったんだよな。

 

(「【交付金】」ordered by 稲葉 良彦-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)

※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・創作姿勢などとは一切関係ありません

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