第3話 【人はなぜいのちと切り離されたがるのか】SFPエッセイ103
好きでやっていることではあるのだけれど、さすがに終盤は苦しかった。暇な時間にほいほいと気楽に書いているように見えるかもしれないが、実態は青息吐息だったのだ。最初の10篇くらいは書き始めてから1時間くらいでぱっと書いてしまえた。30篇あたりまででかかる時間が倍になり、50篇を過ぎるころまでには午前中いっぱいかかるような感じだった。それがだんだん午後にはみ出し、夕方になり、夜になっても書けず、丸1日費やすようなことも出てきた。
こうなるともうSudden Fictionとは呼べなくなってしまう。あくまでも、何も準備せずに朝起きてその日のお題を見て、ぱっと書き出してぱっと書きやむ。そうでなくてはならない。あるお題で、その日のうちに書ききれず、翌日に持ち越した時にはさすがにこれではダメだと思った。
1期100篇というのはこれ以上多くてもいけないし、少なくてもいけない。キリの良さもあるが、実際問題としてこれが限界というところもある。もちろん続けようとしたらまだまだ続けられると思うが、これ以上続けると苦痛になってしまう。楽しめない状態で義務のように書くのは本末転倒だ。
その点、100というのは丁度いい。まず何と言ってもキリがいい。100点満点という言葉もあるし、100パーセントなんて言葉もある。達成感がある数字なのだ。また、100という数字にはそれなりの重みがある。
10ではダメだ。
「人からお題をもらって作品を10篇書きました」
「へえ。それより今乗ってきた電車の中でバカップルがいてさ」
それで終わりである。10ではダメだ。全然ダメだ。
それなら20ならどうだろう。
「人からお題をもらって作品を20篇書きました」
「そうなんだ。でさ、前にぶつけた足の中指の痛みが全然ひかなくて参ってるんだよね」
相手にもされない。20でもダメだ。まるでダメだ。
では34ならどうだろう。
「人からお題をもらって作品を34篇書きました」
「なんで34?」
これではいけない。34は中途半端だった。
では50なら?
「人からお題をもらって作品を50篇書きました」
「すごいね。じゃ、あと50で100だね」
そうなのである。
人は50でもまだ満足してくれないのだ。むしろ100の半分だと受け止めてしまう。それが100になると違う。書いている本人も読む人も、あるいは「人からお題をもらって作品を100篇書きました」と聞かされる人も、それなりの到達点として了解できる。実に具合のいい数字なのだ。
書く側からしても、続ければ必ずたどり着けるというボリューム感である。これでお題がまだ先に365個待っているとかになると精神的にめげてしまう。毎日1篇書いても1年かかる。毎日書けるわけがないから2日に1篇でも2年かかる。2年先に自分がどうしてるかななんてわからない。死んでしまうかもしれない。そうするとお題を出してくれた人にも申し訳が立たない。ダメだダメだダメだ。もうやめよう! となってしまう。
100篇ならば、その気になればなんとかできる。
15年前、Sudden Fiction Project(以下SFP)を始めた時に、「毎日1篇書く」と豪語してスタートして、最初の2か月ほどはほぼ毎日書いていたのだけれど、さすがにいろいろ支障を来たし始めて「これは永遠に続けるわけにはいかないな」と気づき「100で区切りにしよう」と決めた。そういう実作を通じて得た感触で決めた数字なので、それなりにリアリティがあるわけだ。「それ以上は苦痛になる。でもそこまではめげずに何とかいける」という数字だ。
500篇を超えるのに10年かかった。しかしこの500という数字は、上に書いた50に通じる。「じゃ、あと500で1000だね」ということになる。事実何人かに同じことを言われた。内心「じゃあ、おまえ10篇でいいから書いてみろ。いや10篇も書かなくていい。たった1篇でいいから面白い話を書いてみろ! おいこら、書いてみろよ、このうすら(以下略)」と思わなくもないのだが、そこはもういい歳をした大人なので、そんなことは一切顔に出さない。こういうところにも書かない。ふつふつと湧き上がる激情を微塵も感じさせない。
しかしまあ、そういうことだ。覚悟は決めている。たぶん書く。1000まで書く。幸いなことにもう800篇は越えた。あと200篇足らずで1000篇に到達する。大したことはない。ずいぶんペースは落ちたが、生きて書き続ければたぶん次の10年の間には達成できるだろう。
四苦八苦しながら。
と書いてから、四苦八苦の「八苦」て何だ? と気になって調べた。四苦が「生老病死」なのはわかるが、「八苦」とは何だろう? みなさんはよくご存知かもしれないが、「八苦」とは「生老病死」の「四苦」に加え、あと4つ「愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦」を加えた8つだ。
読み方も分からなければ意味もわからない。
しかしあれこれ調べてみると、おおむね「愛しい人と別れること、にっくき奴と出会ってしまうこと、求めても求めても得られないこと、ものや思いに執着すること」という意味らしい。八苦で加わる4つはどれも、感情的な、すごく人間臭い苦しみだ。Sudden Fiction作品のテーマとしてもちょくちょく顔を出していそうだ。
これに対して「四苦」の方はもっと身体的な、いわば動物的な苦しみだ。「生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと」に伴う苦しみ。感情とか気持ちとかよりももっと以前の、根源的な苦しみだ。もちろんそこに痛みや悩みや怯えや悲しみも伴うだろう。でもそれは後から付いてくるもので「生老病死」は人間でなくても生きとし生ける者の全てが味わう苦しみなのである。四苦は生き物としての身体的根源的苦しみ。そこに人間的な脳の働きが生む苦しみを追加して八苦まで広がる。そういう構図なのだ。なるほど。
脱線ついでにもう少し。
以前からあちこちで書いているので重複をお許し願いたいが、先進国や文明国と称する国ではこの「四苦」が日常から遠ざけられている。以前はお産は家で産むのが普通だったが今は病院だ。歳をとると老人ホームに入る人が増えた。病人も治るまでは入院する。そして死の瞬間もまた老人ホームや病院など、自宅ではない場所に移ってしまった。「畳の上で大往生」というのは過去の言葉になってしまった
何が起こっているのかというと、生老病死が日常から遠ざけられてしまっているということだ。根源的な苦しみであり、同時に動物としてのデフォルトの姿である四苦は目に触れない場所に追いやられている。若くて健康的で活動的なものは日常の中にいてもいいが、血や老いや病気や死は巧妙に隠されてしまった。いのちを陰陽にわけて、陽の部分だけ日常とし、陰の部分は人目に触れない非日常扱いしているのだ。
人はなぜいのちと切り離されたがるのか。
思えばSFPで書いてきたことは(そしてそれは他のジャンルのあらゆる創作にも共通して言えることだと思うが)、非日常を日常の場に引きずり出すことに他ならない。見えないように隠されてきたものを見える場所に据え置くこと。光を当てる角度を変えて全然違う風景を浮かび上がらせること。いま日常だ常識だと思い込んでいるものをひっくり返すこと。そこには何の根拠もないことを暴き、いままで誰も指摘しなかった解釈を施してみせること。
しかし、生老病死そのものにはあまり向き合ってこなかった。非日常の領域に隠されていたのに。こんなにも身近な非日常を日常に引き戻すことを、SFPでは手がけてこなかった。なぜか。
なぜなら、それは、わたくし自身が仕組んだことでもあったからだ。品種改良によってあなたがた地球人を作り出す過程で、わたくしはあなたがたから発情期を取り除き、年中発情してどんどん子どもを生むように仕向けた。一度の妊娠に10ヶ月もかかり、おまけに基本は一体しか産めないので、量産するには年中発情させる必要があったのだ。
発情期を取り除く際に、どうやら現実世界との結びつきも取り除いてしまった、らしい。その証拠がいくつもある。
あなたがた地球人は水平垂直な平面で作られた箱の中に住み、あるいは平面や幾何学的な曲面で空間を造形し、家や都市や家具や乗り物やデバイスをつくりたがる。それは自然界には存在しない不自然な空間であり造形だ。あなたがた地球人の脳の中にしか存在しえない抽象的な世界を具体化したものだ。それは現実世界から切り離されるための舞台装置だ。
森や海岸や洞窟で暮らしたあなたがた地球人の祖先は、木や海水や岩石に直接触れ、木の実やキノコ、そして虫や鳥や獣を手ずから捕まえ、殴り、締め上げ、むしり、裂き、噛みつき、食いちぎり、噛み砕き、飲み込んだ。文字通り全身で世界を味わっていた。もちろん人間同士の「四苦」も常に目の前にあった。いまはどうだ? 「四苦」は目の前にあってはならないものだと信じ込んでいる。本当はいつだって目の前にあるというのに。
そうだ。これを書かなくてはいけなかった。はからずも第5期の最後の最後に第6期のテーマが見つかった。今後はあえてここに踏み込むことにしよう。1000篇目に向けて、わたくしは書こう。あなたがたから奪ってしまった世界とあなたがた地球人との結びつきを。
惑星を離れるに当たって、ひとつだけ贈り物をしようと思う。あなたがた地球人が、再び全身で世界を味わえるように、「四苦」を日常に取り戻せるように、そして改めていのちと結びくことができるように。発情期を、全人類に返すことにする。いつから始まるかって? 始まってみてのお楽しみだ。またここに戻ってくるころにどんな変化が訪れているかが楽しみだ。
(「 【人はなぜいのちと切り離されたがるのか】」ordered by 阿藤 智恵-san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
※注意:このエッセイはフィクションであり、 実在の人物・団体・事件・SFPエッセイなどとは一切関係ありません。
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