ニーベルンゲンの螺旋 (Die Spirale des Nibelungen)

そせじ番長

ワルキューレの棋行

第1話 再訪 (第二稿 20200602)

『勝 和平 34歳』


 あきれるくらいの佳いおんながこんなことを言う。

「貴方が魂をくださるというのなら、私は貴方のこころを勝者の杯に変えることができます。卑金属を貴金属に変えるように。もし断れば、勝負の結果がどうなるかは貴方が一番おわかりでしょう。すなわち、あなたの息子さんは心臓病の手術を受けられず、早晩死ぬことになります。貴方はその運命に耐えられず自殺するでしょうね。どちらにしても死ぬのです。」

 探るような視線が光の速度で届いた。

 近頃の悪魔というのは美しい脅迫のしかたを覚えたらしいが、優しくはなくなったな。

「20年前も、私は悪魔なんかじゃありませんって説明したのに信じてくださらなかったですよね。」

 ひととは思えない複雑な色の瞳が、おれを食おうとしている。

「私は竜の……末裔だって、言いましたよね。」

 すべてを想い出した。


 時をすこし遡る。ある対局のひとつ前まで。


 気が重い。死にたい。

二年前に妻を失ったときから死にたさがずっと続いている。何度も死のうとは考えた。だが、死ねない理由がある。東京都の水道水でレクサプロを倍量飲んだ。抗うつ剤である。劇薬とあったがかまうものか。


『AI将棋くんVer.7』との対戦まであと三日。どれほどインターネットを使って古い版の『Ver.6』との練習対戦をしてみても勝ちを拾う見込みがなかった。勝率一割。それでもかなり頑張ったほうだ。

現在、コンピュータ将棋は人間が追いつけないほど強くなってしまった。なので、高額な賞金がかかった人間対機械の戦い『電脳戦』は今回が最後だと言われている。その賞金二千万円がどうしても必要なのだ。ほしい。だがたぶん、十中八九勝てない。


わたしは『勝和平(かつ かずへい)』。34歳。将棋のプロ棋士で五段である。昨年はまったく勝てず、C1リーグに降格したばかり。

妻『泉(いずみ)』とは二年前に乳がんで死別。かわりに生を受けた二歳になる息子『和泉(いずみ)』の心筋が先天的に異常だとわかったのは二ヶ月前のこと。母親に投与された抗がん剤の副作用による畸形と言われている。

「わたしはどうなってもいい。この子はどうしても産まなければならないの。そんな気がするのよ。」

転んで膝をすりむいても医者に行ったくらいの泉が、自分はどうなってもいいから子供を産むといってきかなかった。髪がまだらに抜け、昏睡状態のままで、帝王切開で和泉を産み、そのまま亡くなった。

まるで自分の役目は終えたとでも言わんばかりに。

(おれは役目を果たせそうもない。二人分の命はおれには重すぎる。)

「発作が起きたら息子さんの命の保証はできませんよ。」

 璽恵医大の壮年の医者がなんの感慨もない声で言う。不自然に冷たいやつは嫌いである。

「勝さん。これからちょっとあなたには酷な話をします。アメリカで新しい移植手術が開発されているのはご存知ですか。成功率はほぼ三割。しかし、うまくいけば命の心配はいらなくなります。」

(……)

「ですが、お気の毒ですが、五千万円かかります。」

 そういう事情である。

 家も車も売ったが、あと二千万円がどうしても工面できない。方々に頭をさげて借金をお願いしたのだが収入が不安定な弱小勝負師に金を貸す相手はいなかった。人望も信用もない。

 あと二千万。おれにどうしろと。


 そこにふってわいたのがコンピュータプログラムとの対戦将棋である。ITベンチャー企業の『株式会社全知全能』が主催する『電脳戦』には賞金が二千万円出る。

 喉から手が出るなら、それを切り売りしてもほしい二千万円。


 今まで『AI将棋くんVer.6』に勝てるものはいなかった。

「どうせお前たちでは我々には勝てないのだから、見せ金としてこれだけの額を賞金にしてやるよ。勝てると思ったら遠慮なくかかってこい。踏みつけてやるだけだ。」

というのが二千万円の意味である。最初から渡すつもりなどないのだ。金に目がくらんだプロの高段者たちのプライドを自分たちの餌にするために作り上げた天蚕糸であり釣り針なのである。

 (株)全知全能は将棋だけを売り物にしている会社ではない。新型学習アルゴリズムと分散処理によるAIを研究開発している。最近では量子計算などといった分野に手を出しているらしい。将棋はその応用事例のひとつであり、広告塔なのだ。企業としても負けられない理由がそこにある。


 息子の病気がわかったその日、自分にあつらえられた罠のように新聞に掲載された対戦相手公募に手をあげた。たいへん逡巡し、自殺念慮がひどい日だったのは覚えている。正しい判断をした自信はない。しかし正しい判断がなんだというのだ。


 自殺念慮と言った。そう。わたしはうつ病なのである。それなりに重い。今となっては最愛というものがなんだかぼんやりしてしまったが、その残滓がそのまま鬱となって沈殿したのである。

 何度か事故や故意で死にかけている。二十錠ほどの抗うつ剤をバーボンで飲み下して、気がついたら病院だったことは何度もある。そのたびに「おれは和泉をおいてどこに逃げようとしていたんだ! 」とさめざめ泣いていた。

 戦いに、とくに重要な戦いに勝てなくなった。白熱すると思考のちからが尽き、頭が真っ白にハレーションを起こし、どうしようもなくなる。まるで頭の回路がどこか別のところにつながっていて、白茶けた荒野をさまよっている気がするのである。

 自他共に認める『使えない男』に成り下がった。

 昨年のB2ランクからの降格はほぼそれが原因と言って良い。プロとしてはあるまじきことだが、対戦中にスイッチが切れ、パニック発作をおこし、まだ勝てる目があるのに投了せざるをえなくなった。何度も。いやそれは少なく見積もりすぎてる。

 数回、善意の引退勧告は受けたが首をたてに振ったことはない。しかし、今回の電脳戦では将棋協会から出場推薦を受けるにあたり、

「負けたら引退してもらいますから。」

という実に温かい言葉をいただいている。誰かの足が痺れたのであろう。

 切羽詰まるとはこのことだ。


「名前は和泉がいいわ。『勝 和泉(かつ いずみ)』。わたしのことを忘れないように音は『いずみ』にしたの。ね?センスいいでしょ。」

 そう言って力なく笑っていた泉。

「もうわたしはダメだけれど、和泉をお願いね。」

 その後、目を覚まさなかった。

(申し訳ない。おれが不甲斐ないから。)


ふと我にかえる。

 対局中にスイッチが切れたら?

 おれは戦えるのか?

 わからない。


 すこしでも足掻く。

 そういうわけで、この2ヶ月間は病院通いのほかはコンピュータの対戦将棋ネットに潜り、AI将棋くんVer.6ネットエディションと格闘していた。

AI将棋くんVer.6は現存するすべての棋譜のデータベースから学習し。網羅的な手法と適切な評価値づけによる合理的な枝刈りを特徴とする。古典的と言って良いらしいのだがよくは知らない。ネットエディションらしく、接続された対戦者の指し手、棋風をデータベースに追加していくという嫌味なくらいのおまけ付きである。どんどん強くなる。

一割しか勝てなかったと言った。じつははじめは4割くらい勝てており、このまま行けるかなと思ったら、こちらの顔色をうかがうようになって逆襲されはじめた。最近はまったく歯が立たない。

Ver.7がどんなものかはさっぱりわからない。量子なんとかみたいなキーワードが並んでいたが、ちんぷんかんぷんである。Ver.6より強いとなると正直打つ手がない。ただ、Ver.7と練習対局をしたことのあるベテランの山形七段に

「勝さん、あんたよく挑戦する気になったよね。金に目がくらんで相手のことが見えてないんじゃないの?おれのボロ負けした棋譜をみたろ?あれがほぼノータイムで繰り出されるんだぜ。やってられないよ。」

とは言われたことがある。

 もう将棋は終わったとも言っていた。

 公式発表によればVer.7を、わたしが一割しか勝てないVer.6と対戦させた結果、85%の勝率だったという。山本五十六がアメリカに喧嘩を売ったときは何年暴れてみせますと言ったのか忘れてしまった。


 勝機はある。あると信じる。

 対戦のレギュレーションによると、相手はネットに蓄積された履歴、すなわちわたしの個人的な対局データにはアクセスしないようである。スタンドアロン、えーとマシン単体でネットに接続して学習履歴を参照せずに戦うとのことであった。ということは、棋譜にない手。いままでされたことがないことをすればよいのだ。

初見殺しを。

どんな凶悪な獣でも、予想外の一撃を避けることはできない。

Ver.6も、いくつかの手で殺せた。二度は効かなかったが。


和泉が入院している病院から二時間かけて帰る。コンビニで冷やし中華を買い、遅い夕食をとる。その後はずっとネット対局である。なんとか相手のクセのようなものを掴めればと。


さいたま市の救急車が遠ざかっていく音を聞く。午後11時58分。

Chromeブラウザに『オープン対局ネット』のサイトを呼び出す。メアドとパスワードを入力する。

「ジークムント・フロイト様。おかえりなさい」と表示される。わたしのアカウント名である。

さて、と思ったところに、いきなり派手な音楽がなった。画面に「挑戦者あり」との文字列が踊る。

(なんだって?いったい誰が?)

この対局システムは基本受け身なAIたちだけでなく、市井の将棋ファンからも挑戦を受けられるようになっている。オープンというのはそういうことだ。もちろん小学生レベルからマニア様までアクセスしてくるし、わたしのように素性を隠してプロがもぐりこんでいる場合もある。

誰とでも戦うことができるとはいえ、正直いまは迷惑である。AIとの戦いに備えるだけで手一杯なのだ。あと三日しかない。

なのでフィルターをかけて挑戦者を制限していたはずである。300連勝したものだけ挑戦可能というハードルは、ほとんど突破不可能面会謝絶を意味していたはずなのだ。

(それをくぐり抜けてきた者がいるということか。)

どういうことだろうか。このサイトでは勝ち抜くほど強い相手とマッチメイクされることになるはずである。ということは現在最強を誇るさまざまなAIアルゴリズムたちを軒並み下してきたということなのか。

(まさかVer.7が?)

 自分の心臓の音がはっきり聞こえる。

 挑戦者のプレイヤーネームには『ブリュンヒルデ』とあった。アバターには、どこで拾ってきたのか駄馬に乗った甲冑の美少女が描かれている。馬の首にはご丁寧に「桂馬」の駒に似せた札がぶら下げられている。美少女の尻からは怪獣の尻尾のようなものが伸びている。マニア向きだがなかなか良いイラストかもしれない。

 嫌いではないがイヤな予感がする。

 チャットが入る。

「はじめまして、フロイト先生。たぶん、というかほぼ確実にプロ棋士の勝五段でございますよね?」

「最近、負けてばかりだから名前にも負けているけれどね。」

 時と場所を選ばずに軽口を叩いてしまうから一部からは嫌われていることは自覚している。うつになる前の人格はこうだったのであり、時々こういった言葉遣いが出てくる。

「お戯れを。私はブリュンヒルデ。お久しぶりでございます。貴方と戦うために300人を泣かせてまいりました。今日は精神分析のお願いではありません。一手ご教授いただければうれしいです。」

(お久しぶりだって?だれだ?将棋協会の関係者か?)

「知り合いだというなら本名を名乗ってくれないかな。」

数秒の逡巡のあと、こう返ってきた。

「いえ、わたしは追われる身ですので本名を名乗ることはできません。それにまあブリュンヒルデという名も私の本名ではあるのです。」

 意味がわからないが、頭がおかしい人間だということはわかった。わたしも頭はおかしいけれど、スイッチが切れない間は、思考はしっかりしている。早々に追い払う方がよさそうである。

「いや、悪いけれどいまは仕事の準備で忙しいんだよ。人間と対戦しているヒマはないんだ。」

「あら、わたしが人間だといつ言いましたか?」

やはり頭がおかしい。厨二病かもしれない。そういう人間とネットで会話したことがあるが、自分になにかの役柄をふって悦に入っている変態だと思う。

「人間じゃないってか。少なくとも女性である気はするけれど。それともそのあたりも詐称かい?」

「ネカマっていうんですよね。いえ、私は女性です。ただし人間じゃありませんけれど。」

 写真が送付されてきた。

 ふいた。

 とんでもない美人。たしかに人間離れしている。白人とアジア人のハーフのように見える。ゆるみのない細面。陳腐な擬態語が思いつかないくらいに通った鼻筋。透き通った鎧をまとっているような肌。意志強固に結ばれた唇は女性らしくふっくらもしている。さらりと流れた長い髪は芸術家が手を加えてもこうはならないというくらい銀に近い金。なんというか神々しい。美術史の教科書でも手に余る。だれも通り過ぎることができない。

 加えてなにが印象的かというと、こんな色が存在するのかという不可思議な瞳、虹彩であり、そこに浮かんでいる背筋に怖気が走るくらいの冷たい酷薄さであった。

 もし彼女が自分で言うように人間でないのだとすれば、数々の戦場を駆け抜けてきた戦乙女なのかもしれない。ブリュンヒルデという名前もなにかで読んだことがある。

「ワルキューレとはね。まあ少なくともその写真からはいろいろ信じるに足るな。わたしはまだ美人にだまされたことがないから美人は正直だと信じても良いよ。」

「半神じゃあありませんわよ。そうですねえ、覚えていらっしゃらないと思うので、再度言ってしまいますけれど半竜……かな?」

(はあ?)

「タイガースだろうがドラゴンズだろうがどちらでもいい。いま忙しいとはすでに言ったと思う。せっかくだけど……」

こんな美人が笑うとこうなるのかという見本をいま見た。たぶん誰も真似できないし、真似をしてはならない。

「ふふ。存じ上げております。Ver.7との戦いの準備ですわね。」

「知っているなら話は早い。」

「強いアルゴリズムと、戦いたくありませんか?」

(アルゴリズムと言ったか?つまりまあ彼女は自分で戦ったのではなく、コンピュータに将棋を指させて300勝してきたというのか。)

 彼女のプロフィールをあらためる。AIアルゴリズムとは書かれていない。しかし、フィルターの設定がこんな具合では戦う相手はすべて高段者の猛者ばかりになるはずだ。それを300人抜き。

 対局履歴を見てみた。よく知っているアカウント名が並んでいる。一石は馬越四段。ブラームスは最上七段。月読命、正岡子規、ホーバー・マロウ。秋月竜王もいる。こいつらをボコにして来たのか?信じられん。

「一手ご教授と申しましたが取り消します。尋常に勝負いたしましょう。おそらくそのほうが説得力があるはずです。」

 なんというのか。勝負を受けないとあの瞳で侮蔑を受ける気がして、それは避けなければと思えてくる。なぜだか死んだ泉と喧嘩したあとにセックスに誘われているような気にもなってきて断り切れない。あれはそういう女だった。お互いわかり合うにはこれが一番早いわよと。

「君が強いのはわかった。一局指そう。そうしないと怒られる。」

「?」

「いや、こっちのことだ。では振り駒といこう。」

相手をアマチュア扱いするのはやめておけと、こころの奥底が警鐘を鳴らした。


 徹底的に穴熊を極めたつもりでいた。

 それでも負けつつある。

 角が陥落してからというもの防戦しか能がなくなっている。

 五段のプロ棋士が身ぐるみはがされていくのは周囲からみたら失笑ものだろう。

(だが、この負け方には既視感がある。どこだ。いつだ。)

 脳みそが雑巾なら、これでもかというくらい絞って、なにかを想い出そうとした。

 雫がたれた。

(師匠の手筋か!)

一度だけだからねと見せられた角交換のハメ手。気づいたときには窒息している。わたしは知らず知らず、同じ穴におちていたのである。なぜいままで忘れていたのか。というよりもなぜこの手筋をこのクソ忌々しい美女が知っているのか。

(ブリュンヒルデ!おまえはいったい?)

少しずつ視界がブラックアウトしていく。やばい。あれが来た。限界だ。過呼吸。苦しい。

(死にたい。死にたい。死にたい。)

思わず、投了ボタンをクリックしていた。


十分ほど、ディスプレイの前でのけぞったまま固まっていた。

戻ってくる日常の空気に、敗北感や後悔、絶望などがまざりはじめた。深呼吸するとそういうものを無駄に取り込む気がして、涙が出た。

ブリュンヒルデからチャットが入る。

「勝ちを拾わせていただいたようです。ありがとうございました。」

ぬぐった、涙を、それ以外も。

「すまんね。わたしはこう見えて病気持ちなんだよ。勝負師としては致命的なね。でも勝ちを拾ったはひどいな。君は実力でもぎとったんだ、わたしの首を。ところでそろそろ種明かしをしてくれ。君の強さはいったいなんなんだ。AIにかわりに指させたのか?」

「いいえ。貴方自身と。」

 これが冗談やレトリックだとしたら喧嘩を売ろうと思っていたが、その次の言葉に息を呑んだ。

「貴方、14歳のとき、将棋のプロになると決心したときに、私に魂をくださると言いましたよね。それ以来、ずっと収穫の時を待っていました。あなたが戦士としてどれくらい成長したのか。娘さんの命がかかった三日後に貴方がどう戦うのか。拝見したく思います。もう一度うかがいます。」


 時間が動き出した。

「Ver.7に勝つために、私に魂をいただけませんか?貴方が魂をくださるというのなら、私は貴方のこころを勝者の杯に変えることができます。卑金属を貴金属に変えるように。」

イヤな予感が身震いに変わっていく。

「私は竜の……末裔だって、言いましたよね。」

記憶のロックが外れる音がきこえた。

(そうだ。そうだった。)

美女はチャットに「www」と書いて、ログアウトしていった。


第一話 了



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ニーベルンゲンの螺旋 (Die Spirale des Nibelungen) そせじ番長 @jnakata2014

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