幸福の街

ヘイ

幸福の味

 その街の人は幸福の味を知る。

 幸福度は確かな指標として存在し、その街はとある薬物を作り出した。

『H剤』

 これが幸福の味で、感触だ。そう言うかの様に広告を打ちだすと、見る見るうちに社会に伝播していく。

 事故死、過労死、殉職と暗い噂が絶えない世の中で、その薬物は確かに需要があったのだ。得られる多幸感、そうでありながら体には無毒。まるで奇跡の薬品だ。

 一日、一回。これを飲むだけで人は幸福の味を知り、幸福な世界で生きられる。

 どれだけの人間が死んでも、幸福を感じて、どれだけの悲しみにくれても、その薬を飲む事で、全てが幸せになる。

「ふふ、今日はお父さんが死んでしまったわ」

「あはは、それは残念だね」

 彼らは笑う。

 涙など流さない。彼らの涙は笑顔が塗り潰していく。

「ようこそ、幸せな街に。まるで夢の様でしょう?」

 あふれんばかりの幸福感。それは市長自身からも感じられる。

「幸福に至る薬。H剤の製造を止めていただこう」

 ただ、市長の後ろをついて歩く男にはこの街は不気味なものにしか見えない。目の下には隈がくっきりと浮き出ていると言うのに、眠るのすら忘れた様に幸福に身を委ね、笑っている。

 血走る目を開いて、笑っている。

「それはなりません。なりませんなぁ……」

「それはどうしてだ?」

「どうしたもこうしたもありません。我々は幸福の味を知ってしまった。それを手放すなど、今更できません」

 どこが幸せなものか。こんなにも狂った幸せに身を委ねるなど死者が増えるだけ。

「それは仮初の幸福への依存だ」

「だとしても良いではありませんか。これが仮初とは言え、得難い幸福の感触。魅力的には映りませんか?」

「魅力的?……お前らは客観視すら出来なくなったのか?」

 この惨状をどうして理解できていないのか。それは彼らの幸福が理性のタガを外したから。

「ならば、あなたも一度味わってみるべきだ。眠ることすらも、食べることすらも、性欲を抱くことすらも忘れる最高の幸福を」

「そんなものなどいらない。幸福なんてあやふやなもの、私は求めてなどいないのだから」

「そう言わずに」

「要らないと言っている……」

「一度だけで良いのです」

「いい加減うるさいぞ!」

 男はそう言って脅す様に市長の顎先に銃を突きつけるが、満たされた様な顔で彼は笑う。

 銃を取り出し、誰かに突きつければそれだけで騒ぎになることは必至だと言うのに、やはりこの街は狂っている。

 恐怖すら押し除ける幸福は人の頭から、危機的状況への判断というものすら取っ払ってしまった。

「どうしました?」

 まるで今の状況をまともに理解していないのか、市長は笑いながらそう尋ねる。

 このままいけば、子孫繁栄もできずに幸福という海に全てが飲み込まれてしまう。そんなことは誰にだって想像ができた。

「何故こんなことをしたんだ」

 こんなこと。というのはH剤の製作のことだ。

「この街は、この薬が出るまでは悲しいほどに人が死ぬ暗い街でした。ですが、この薬が出回ってからは誰も彼もが幸せを感じられるのです。幸せは平等。悪人だって、望んで悪人になったわけではない。彼らは心が満たされれば、犯罪には手を染めなかったかもしれない」

 ただ、より恐ろしいことになるとは考えなかったのか。

 悪人は幸福を感じ、そして幸福に身を委ねて、野垂れ死ぬ。幸福の対価はその人間の欲望も生への執着も全てを洗い流した。

「これが……」

 望みなど誰も覚えていないのかもしれない。本当に彼らが手に入れたかった世界はもう、見ることはできない。

 泣き叫ぶ子供も、感情的になり喧嘩するカップルも、子供を叱る親も、正義感に従う者も、この街にはもういない。

 とある男は薄気味悪さに銃をしまって、その街を出ることにした。

 

『悪かったな、どうにもできなくて。あの街で何かをしたところで焼け石に水だ。H剤の製造を止める事も一時的なものにしかならないだろう。私にはどうにもできない。そう判断して、あの街を離れた。

 ただ、もしもの話だが、本当に幸福になれる薬があるのならーー、いや冗談だ。少々、ペンが動きすぎたみたいだ』

 

 そんな内容を記して彼はくるくるとその手紙を巻いて、伝書鳩に持たせた。

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幸福の街 ヘイ @Hei767

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