校舎の二階へと昇った直後、近くの教室から男女の声が、こちらまではっきりと聞こえてくる。

 声のする方へと駆け出そうとするが、すぐにさきほどの心配が頭を過ぎり、足が止まってしまう。

 もし止めに入ったとしても、僕が下手をすれば、また五月女先生の立場が悪くなってしまうかもしれない。そう考えると、どうしても一歩が踏み出せず、二の足を踏んでしまう。


 男女の言い争う声は次第にエスカレートしていく。もはや悩んではいられないと決心して駆け出そうとした瞬間、唐突にひとつのアイデアが閃く。

「……あっそうだ。僕でなければいいんだ」


 廊下を駆けだすと同時に、視界を青白い靄が包み込んでいく。

 チクチクと痺れるような刺激が全身を駆け抜ける。

 己の内面に存する《力》に触れた瞬間、殻を破るようにして肉体は変じていた。


 声のした教室の中へ開いた扉から飛び込む。

 最初に目に飛び込んできたのは五月女先生ににじり寄る背の高い生徒の姿だった。

 

 手始めに五月女先生の近くにいた男子生徒を横合いから突き飛ばす。背中を壁に打ち付けて倒れた生徒は、何が起きたのか分からないようで、痛みよりも先に驚きの悲鳴を上げる。

 突然、目の前に現れた闖入者に、残りの二人の男子生徒は、ありえない物を見るように数秒ほど凝視してから、パニックに陥ったように大声を上げながら後ずさる。

 さきほど倒した生徒を一瞥して立ち上がらないのを確認すると、次の目標である二人に狙いを定める。体勢を構えて牙を覗かせて唸り声を上げると、すぐに二人は怯えた表情を見せる。

 

 ボコッ!


 直後、背中をなにか柔らかい物で殴打される。

 痛みはなかったが、咄嗟に飛び退いて後ろを振り返る。すると、そこには筒状に丸めたポスターを構えた五月女先生が立っていた。

「何やってんだっ!サッサと逃げろっ!」

 さきほどの一打で拉げてしまったポスターを構えたまま、五月女先生は荒い息をつきながら生徒たちにそう叫ぶと、怒りを露わにした双眸で僕を睨みつける。


 胸の奥が酷く痛かった。


 ナイフで切りつけられるよりも、大きな鳥にイジメられるよりも遥かに辛く、それは今迄経験したことのない痛みだった。

 いますぐにでも人の姿へと戻り、自分が敵ではないと五月女先生に伝えたかった。


「ヒッ、ヒィィィーー?!」

「ァ、ァ、ウワァァァーー!!」

 

 奇声を上げて半ばパニックに陥った二人だったが、それでも先生の指示に従い、その場からよろめきながらも逃げていく。

 結局、彼らは一度として倒れている友人を気にかける素振りを見せなかった。それが言い様もなく、ただ悲しかった。

 

 彼らが逃げ去ったのを確認すると、今度はその場に残った五月女先生と男子生徒の二人へと向き直る。

「オイッ小林!無事か?立てそうか?」

「先生…足が……震えて立てねえよ」

 小林と呼ばれた生徒は、なんとか五月女先生の呼びかけに返事を返すが、恐怖からか、その声は震え、身体も硬直してしまっていた。

「わかった!もうしばらくの辛抱だから我慢しろ!じきにアイツらが他の教諭に助けを呼んできてくれるからな!」

「でも……逃げたかも…」

「この学校で一番安全な場所は大人のいる場所だっ!だから安心しろ!」

「…はい……先生、助けて…」

「ああ!」

 

 拉げたポスターを正眼に構えた五月女先生は、自身の手が震えているのを隠すようにこちらに一歩踏み出す。

 五月女先生は自分に対して害意を持っていた生徒ですら必死に守ろうとしていた。

その姿を見ていると、なんとも場違いではあったが、この先生が担任になってくれて本当に良かったと、心の底から思えた。


「グルルゥゥ」


 倒れたままの生徒へと視線を向けると、男子生徒はひいっ、と小さく呻き、必死に後ろへ下がろうとする。が、男子生徒の後ろは壁と学生用の棚があるだけで、男子生徒はただ闇雲に壁に背を押しつけるだけだった。

 倒れた生徒に狙いを定めた事に気づいた五月女先生は、そうはさせまいと、こちらの視線を遮るように生徒の前に立ち塞がる。

「こっちを見やがれっ!この犬っころ!」

「ワッフ?!」 

 犬と呼ばれたのがすこし癇に障ったため、思わず唸り声を上げてしまう。


 その後も僕と五月女先生の睨み合いはしばらく続く。五月女先生の隙を窺いつつ、後ろで震えている男子生徒を狙おうとするが、悉く五月女先生に阻止される。

 もとより本気で危害を加えるつもりはなく、あくまでお灸を据える程度のつもりだったので、これくらいで済ませようかと思い始めた頃、階下から複数の足音が近づいてくるのが分かった。


 耳をそばだてて、意識を階下へと向けていると、どうやらそれを察知されたらしい。五月女先生は手に持ったもはやクチャクチャになった紙の棒をこちらの足元へと投げつけてくる。反射的に飛び上がってそれを回避すると、どうやらその瞬間を狙いすましていたらしい五月女先生は、こちらへ向けて猛然と体当たりを仕掛けてくる。

 空中にいるため、避ける事ができない僕の身体をガッチリと掴んだ五月女先生はそのまま僕を床へと押し倒した。


「今のうちだ!這ってでもここから逃げろ!」

 五月女先生は僕の首と胴に腕を回し、懸命にしがみ付きながら、後ろの男子生徒に向けて叫ぶ。

「ひゃ、はい!」

 何が起きたのか分からず呆気に取られていた男子生徒は、五月女先生の声に我に返ると、よろよろと立ち上がり、震える足で出口へと歩き始める。


「ワゥッ!キュゥッ!」

「うわっコイツ!暴れるな!」

 

 そろそろ頃合いなので、もがいて逃げようとしてみたが、そうはさせまいと五月女先生は必死にしがみついてくるため、抜け出すのは困難だった。力ずくであれば外せないこともなかったが、その場合、五月女先生に怪我をさせてしまう可能性があるため当然却下。かと言って、このままここでもたもたしていれば、男性教諭たちが乗り込んできて取り押さえられてしまうのは明白だった。


「クゥゥ~」

「ハッ!今更命乞いしてもおせえぞ!大人しくお縄につくんだな!」


 組み伏したことで勝利を確信したのか、五月女先生は僕の耳元で高らかに勝ち誇る。

 声のした方に首をひねると、ちょうど目の前に五月女先生の金髪の頭が見える。

 どうしたものかと思案していると、ふと、さきほどの舞台での出来事が頭を過ぎる。それは舞台の終盤、ベルと野獣のキスシーンで、当然ながら本当にキスをしたわけではなく、互いの頬を引っ付けてそれっぽく見せたのだが、その時、どういうわけか五月女先生は僕の耳元にふっと息を吹きかけた。

 すこしくすぐったかったものの、本番中だったため、特に気に留めはしなかったが、もしかしたらこれは脱出の手口になるのでは、と閃く。

 藁にもすがる思いで、五月女先生の耳元へ向けて息を吹きかけてみるが、反応はない。おそらく気づいてすらいないのだろう。

 ならばと、今度は五月女先生の耳をペロリと舐めてみる。


「あんっ…ばっ!なにすんだっ、この野郎、やめろ!」


 さきほどとは違い、今度は反応がある。なにやら可愛らしい声が聞こえたかと思うと、五月女先生はこちらの攻撃を躱そうと、体を仰け反らせて頭を遠ざける。

 結果、掴んでいた腕に隙が生まれると、それを逃さず、前足の爪を床に立てて体を引っ張り出す。

 そのまま、整列している机のひとつに飛び乗る。机の上に載る事で、ちょうど五月女先生と目線が同じになり、ほんの数秒ではあったが、互いの視線が交わる。


「…お前、一体なんなんだ!?」

「……」

「どうしてアイツらにしたように、私を攻撃してこない?」

「……」

「…まさか、いや、でも、お前、私を――」


「オイ!ここでいいんだな?五月女先生!」

 廊下から男性教諭たちの慌ただしい声が響いてくる。

 

 窓辺の机に飛び乗り、爪を引っかけて窓を開ける。すると、ちょうど心地よい風が室内に吹き込む。

「なっ、待て、待って!」

 五月女先生の声を振り切り、勢いよく窓の外へ飛び出す。

 慌てて五月女先生は窓の外へと手を伸ばしたが、その手は虚空を掴む。


 トンッ


 アスファルトの地面に着地すると、すぐさま校舎の物陰へと身を隠す。

 窓から身を乗り出した五月女先生が、僕の姿を探しているのが見える。


 その直後、数人の男性教師たちが教室の中へと駆け込んできたため、教室の中が騒然となる。息を切らせた教師陣を五月女先生が宥めているのが、ここからでも分かった。

 どうやら、今度は上手くやれたようだった。




 

 










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