わずかな静寂の後、檀上に下ろされた幕がゆったりと開く。

 舞台の上には、ベニヤ板を塗装して作られた時代がかったレンガのお家が数軒設置されていた。あちらこちらにペンキが剥げかけているのを見ると、演劇部がまだ存続していた頃から使われていたものなのだろう。


《昔々、とある町に、ベルという名のそれはそれは美しい娘が年老いた父親と共に暮らしていました》


 スピーカーから聞き慣れた声のナレーションが流れる。それはさきほどまで目の前にいた斎藤さんの声だった。


《ある日、父親は商いのため、隣町へと出掛けることになりました》


 顎に髭を蓄え、腰の曲がった老人が荷台を引きつつ、舞台の袖から現れる。


『それじゃ、行ってくるよ。愛しいベルや』

『行ってらっしゃい。パパ、道中気をつけてね』


 ベルの父が家に向かって声を掛けると、姫守君、もといベルの透き通るような声が講堂の隅々にまで響き渡る。

 その声にハッと息を呑むが、しかし、肝心の主役のベルの姿は舞台のどこにもない。主役の登場はまだ先ということなのだろう。このやり方、というか、このじらし方は演劇部の植村の仕業に違いない。舞台の袖で「ナハハ」、と意地悪く笑っている姿が容易に想像がつく。

  

《ベルの父が隣町へと続く山深い森を歩いていると、突然目の前に、……目の前に狂暴な熊のような山賊が現れました》


 なにやらナレーションが詰まっていると、突如、ベルの父の目の前に両手に斧を持った大柄な山賊が飛び出してくる。

『ガオー――ッッ!!』

『きゃあああーーーー?!』

 さきほどまでのよろよろ歩きとは一転して、ベルの父親は盗賊に追いかけられて舞台の上を所狭しと逃げ回る。

 あの声と長身、山賊役は裁縫部部長の森さんに間違いない。彼女とは長い付き合いだが、まさか盗賊に扮した姿を見る事になり、しかもそれがはまり役になるとは、思いも寄らなかったため、なんとも愉快だった。

「フフッ」

 隣で見ていた蛯原さんが咄嗟に口元を手で覆う。

「これじゃあ喜劇よね」


《やっとのことで山賊から逃げ切ったベルの父でしたが、気がつけば辺りは見覚えのない深い深い森の中。荷物もどこかで失くしてしまっていたようでした》


『ここは一体何処だろう?いつの間にか荷物も落としたようだ。…ああ、このままでは商いどころか、家に帰り着くことすら出来ないぞ。そうなれば、愛しいベルに頭をなでなでしてもらったり、一緒のベットで添い寝をしてもらうこともできない……』


《実の娘に対して異常なほどの偏愛をみせるベルの父が、途方に暮れてさ迷い歩いていると、いつの間にか、ベルの父は薔薇が咲き乱れる花園にいました》


『おお!なんと美しい薔薇の花だろう。そうだ、荷物は失くしてしまったが、この薔薇の花を持ち帰れば、きっとベルも喜んでくれるに違いない!』


《そう言い、ベルの父が薔薇の花に手を伸ばした――その時でした!!》


 ――突然、舞台の照明が落ち、辺りが暗闇に包まれる。

 

 いきなりのの展開に、周りの皆も動揺しているのがこちらからも分かった。

 しばらく様子を伺っていると、なにやら後方からズルズルと、何かが引きずっているような音が聞こえてくる。

 おそるおそる、怪音のする方に振り向くと、何か大きな物がもぞもぞとこちらに近寄ってくるのが分る。

「ヒィッ?!」

 驚きのあまり悲鳴を上げる蛯原さんは私の腕にしがみつく。周りの役員たちも驚き、後退る者までいた。

 次第に近づいてくる物が目の前まで迫って来た所で、ようやくその全貌を捉えることができる。それは橙色の毛に全身を覆われた毛むくじゃらの怪物のようで、顔はフードで覆われていてはっきりとは見えなかったが、口元からは親指ほどの真っ白な牙を覗かせて、周囲を威嚇するようにのしのしと歩いていた。


『ウオオオォォーーー!!』


 怪物はこちらを通り過ぎ様、急に大きな唸り声を上げて駆け出したかと思うと、舞台へと飛び乗る。直後に舞台に照明が灯り、怪物は薔薇の造花を手にしたベルの父の前に立ちふさがる。


『オレ様の花園に無断で立ち入った花泥棒は貴様かァァーー!』

『キャァァーーー、ととと、盗ってません!?』


 ベルの父は慌てて手にした造花の薔薇を背中に隠すが、当然、そんな見え透いた嘘が通じるはずもなく、怪物に襟首を掴まれたベルの父は、怪物と一緒にはけていく。


《かくして、ベルの父は野獣の城に囚われの身となってしまいます。そして幾日が経っても帰らない父を心配したベルは、遂に父を探す旅に出る決心をします》

 

 ――場面が切り替わり、最初の街並みに戻ると、ようやく主人公のベルが姿を見せる。


『ああ…パパ、一体どこへ行ってしまったの?もしかしたら森で怪我をしまったの?それとも何処か具合が悪くなって倒れてしまったの……。もうダメ、これ以上待ち続けるなんて私にはできない。待っていてね、パパ。私が必ず見つけ出してあげるわ!』


 淡い青色の生地のドレスに、袖から覗く白くて長いチュニック、それは如何にも映画などでよく見掛ける村娘の衣装であった。しかし、それでも私たちの視線は主役のベルに釘付けになる。

「…綺麗…」

 舞台に現れたベルの姿に見入り、恍惚とした表情で蛯原さんは呟く。

「ええ、本当に」

 そうなのだ。私たちはその単純な理由のために、ベルから視線を逸らすことができないでいた。転校してきた当初から目を引く逸材だとは思っていたが、今それをまざまざと思い知らされる。


《ベルは山道のはずれで壊れた荷台を見つけます。見覚えのあるその荷台は父の物でした。きっと、この先に手掛かりがあると思ったベルは、深い深い森の奥へと入って行きました。そして遂に、あの花園へと辿り着いたのでした》


『まあ、なんて美しい薔薇なのでしょう。それに、あの向こうに見えるのは立派なお城…。もしかしたら、あそこにパパの手掛かりがあるかもしれない』


 あくまで布で作られた造花ではあったが、まるで本当に辺り一面に薔薇が咲き誇っているかのように、ベルは少女のように喜ぶ。否、もはやベルはまごうことなく少女であった。それを否定する者は、今、この舞台を見ている者の中には誰一人いなかった。


《城へ入ったベルは、父の姿を探し求めました。そしてやっとのことで父と再会することが出来たのですが、そこへ、あの恐ろしい野獣がやってきたのです》


『お願いです、どうかパパを助けて下さい。もし,パパを助けていただけるのなら、私が代わりに牢の中に入ります』

『なんてことを言うんだ、ベル!?』

『…いいだろう。父親に代わり、お前がこの城に残るがいい』

『そんな、やめろ!やめてくれ!はなせっ!放してくれ!ベル、ベルや…、ワシの可愛いベル…』 


《ベルの父の哀訴も虚しく、ようやく再会できた親子は、再び離れ離れとなってしまうのでした。ベルの悲しみはそれはそれは深く、温かいスープや、柔らかなベッドを与えられても、悲しみが癒えることはありませんでした。

 

 月日が経ち、恐ろしい見た目とは裏腹に、献身的な野獣の姿に、次第にベルは野獣に心を許すようになって行きます。

 それでも、ベルの父を想う心が晴れることはなく、夜毎に枕を涙で濡らすのでした…》

















 

 






















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