それからの数日は、これまで以上に目まぐるしく毎日が過ぎていった。

 

 芝居の一連の流れを通しで何度も行う。経験も浅く、不慣れなためミスを何度もしてしまい、その都度、植村部長からの怒鳴り声が飛ぶ。とくにクライマックスのダンスシーンに入るとその頻度は否応なく高まってしまうため、どうしても肉体的な疲労よりも、精神的な疲労の方が大きくなる。

 普段は笑顔を絶やさず飄々とした植村部長だったが、こと演劇に関しては甘えを許さず、常に眼光鋭く稽古の様子を見守ってくれていた。


 自宅に帰ってからも練習は終わらない。植村部長から手渡された『美女と野獣』と表紙に印刷された台本を暇があれば読み返し、何度も何度も暗唱しては言い回しや感情の込め方を自分なりに研究を重ねた。台詞の量そのものは多くはなかったが、それ

でも本腰を入れて練習し始めると、時間はいくらあっても足りなかった。

 夜になると、ベッドの中で姫ちゃんを寝かしつけるのに台本の内容を読んであげたりもした。

 一日一日が過ぎていく度に、胸の奥に緊張感が増していくのが実感できた。それでも不思議と不安をあまり感じなかったのは、偏に皆のおかげだった。共に練習を重ね、共に怒られ、共に時間を共有してきた仲間と呼べる彼女たちの存在はなによりも大きかった。

 部長が言っていたように、皆が一緒であればどんな事でも不可能はないと思えてしまえるほど、彼女たちは頼もしい存在であった。クラスメイトの友人である歌敷さんや斎藤さんと同じく、裁縫部との出会いはかけがえのないものであった。



 そして、ついに日曜を迎える。


 早朝、普段よりも早く家を出る僕を、スヤスヤと眠る姫ちゃんを抱いたお婆様がいつものように玄関まで見送りに来てくれる。

「それでは、お婆様」

「悔いのないよう精一杯やっといで。もし、舞台が上手くいったら、文化祭には私も姫を連れて観に行かせてもらうよ」

 普段から冗談など言わないお婆様が冗談を言う。…冗談ですよね?

「い、いってきます」

「ああ、気をつけていっといで」

「姫ちゃんもいってくるね」

「ミ…ミィ…」

 声に微かに反応した姫ちゃんも、瞼を閉じたまま半分夢の中からお見送りしてくれる。


 十分ほど山道を進むと、やがて校庭が見渡せる道に出る。普段であれば周囲の森から聞こえてくる蝉にも負けないくらいの掛け声が校庭から聞こえてくるのだが、今日は日曜の早朝ということでまだ運動部の姿はなく、がらんとした校庭に何処か物足りなさを感じてしまう。

 

「あっ」

 校舎を見上げると、いつかと同じように屋上に見知った人がひとりで佇んでいた。金髪の頭に、白のシャツ、黒のズボンというシンプルで見慣れた服装、それは五月女先生だった。

 以前と同じく、ぼんやりと空を眺めている五月女先生を、こちらも歩きながら眺めていると、偶々、視線を落とした五月女先生と偶然にも目が合う。いや、正確には目が合ったと思ったのはこちらだけで、向こうからすれば、ただ登校中の一生徒の姿を見つけたにすぎないのだろう。それでも、なんだか嬉しくなってしまい、手を大きく振ってみると、すこしして向こうも手を振り返してくれる。こちらと違い、どことなく苦笑いを浮かべているように見えるのは気のせいだろうか?


「 お は よ う ご ざ い ま す ! 」


 屋上の五月女先生にも聞こえるように、深く息を吸い、声を張り上げて呼び掛ける。すると、どういうわけか、五月女先生はパタパタと手を振って、こちらに何かを伝えようととする。


「 い い お 天 気 で す ね ! 」


 もう一度呼び掛けると、今度は口の前で人差し指を交差させて×印をつくる。

「…ああ、やっちゃった」

 今日は五月女先生と一年二組にとっての大事な日ということで、どうやら知らず知らずのうちに気持ちが昂ってしまっていたようだ。気を引き締めるため、自分の頬を何度か叩く。

 

 駆け足で校門をくぐり、校舎に入ると階段を一足飛びで昇り屋上を目指す。

 日曜の校舎は普段の学び舎としての様相からはまるでかけ離れていた。人の気配のない、だだっ広く細長い通路は、自分にとっては格好の遊び場にしか見えなかった。

こんな日でなければ、きっと廊下の端から端まで駆け回っていたに違いない。

 屋上へと続く扉には、しばらく前から貼られていた注意書きの紙が、いつの間にか外れて隅に落ちていた。貼り直そうかとも思ったが、そもそも注意書きを守っていない自分がそれをするのも、なんだかおかしな話に思えたのでやめておいた。


「おはようございます…」

「…おう、おはよう」

 おそるおそると扉を開けると、扉横の壁にもたれ掛かった五月女先生は気だるげに挨拶を返してくれる。

「あの、今朝は早いですね」

「お前、声デカすぎ」

「はい、…すいません」

「いつもは奥手な癖して、たまに妙~に大胆な所あるよな、姫守は」

 ペコリと頭を下げるが、五月女先生は視線をこちらへは向けずに会話を続ける。

「その、先生の姿を見たらなんだか嬉しくなって…」

「そういうのは女子共に…いや、トラブルの元だな。忘れろ」

「…はい」


「眠れそうになくてな…」

 しばらく無言の間が続いた後、五月女先生はポツリと呟く。

「えっ?」

「結局、夜中ずっと車を走らせてた」

「先生でも、緊張したりするんですね」

「そんなの当たり前だろ。大人だって眠れないくらい悩む時はあるし、苦しさのあまり死にたくなる時だってある。むしろ、大人になってからの方が増えて来るぞ。お前らもあと何年かすれば嫌でも味わうことになる。………だから、せいぜい学生の間だけは無理するな。悩んだり、苦しかったら助けを呼べ。話を聞いてくれる奴は探せばちゃんといるから。大人になってからは、中々そうはいかないからな」

 それは僕たち生徒よりも、ほんのすこし人生を長く経験してきた先輩からの心のこもったアドバイスだった。

 その言葉を伝え終えると、五月女先生はようやくこちらを振り向き、すこしはにかんだ笑顔を見せる。その表情はまるであどけない少女のようでとても愛らしい。

「それなら僕らにとっては五月女先生が、その人ですね」

「どうせ頼りないって言いたいんだろう?」

 五月女先生はイタズラっぽい笑みを浮かべながら言う。

「そんなことないです。みんな五月女先生のことが心配だから、こうして協力してくれてるんです」

「分かってるよ。さっきのは皮肉だ…そらっ」

 五月女先生は立ち上がり、ズボンの汚れを払うと、隣に座る僕に手を差し伸べる。

 とくに何も考えず、無意識にその手に触れる。触れた手はほんのりと暖かく、僕の手をやさしく引き寄せた五月女先生は、そのまま屋上の中央へとエスコートする。

「ふふっ」

 はじめの頃は、あんなに嫌っていた優雅な仕草でのエスコートも、今では随分と板についてきた。

 互いに向き合い、どちらからともなく手を重ね、体を引き寄せる。先生は僕の背中に手を当て、僕は先生の腕に手を添える。

「せーのっ、ワン、ツー」

 本番のようにBGMはなくとも、身体がリズムと流れを憶えている。互いの視線と息遣いを合わせながらステップを踏む。ターンをきめるたびに、周りの景色がくるくると流れていく。

 ここには監督役の子も、ダンスを見守る子たちもいない。誰に見られるわけでもなく、ただお互いがお互いの気持ちを現すように心から踊る。きっと踊りの上手い人から見れば、拙いものなのだろう。それでもこれが今の僕たちに出来る精一杯であり、なにより、こうして心を許せる人と二人で踊れることがたまらなく楽しかった。


「はあはあ…」

「ごめんなさい、大事な日なのにはしゃいでしまって…」

 気のすむまで踊り尽くした結果、疲れ果てた五月女先生は屋上の床の上に大の字になって伸びてしまう。

「ハアハア、もし、この状況、ハアハア、誰かに見られたら、絶対勘違いされるな」

 五月女先生はぜいぜいと息を切らせながら呟く。

「やっぱり何かまずかったですか?」

「…べつに、それにこれくらいどうってこと、ハアハア…んっ?」

 すこし顔をしかめた五月女先生は、ズボンのポケットから呼び出し音の鳴る携帯電話を取り出す。そういえばそろそろ合流時間だろうか?

「部室に行きましょうか?」

「ああ、そうだなっと、悪いんだがちょっと肩を貸してくれないか?」

 言われた通り、五月女先生の腕を首に回して上体を起こす。次いで、五月女先生の膝の下に腕を滑り込ませると、その細身の身体をひょいっと持ち上げる。

「――ちょ、お、おい」

 呆気に取られてる五月女先生を抱きかかえたまま出口へと向かう。

「任せて下さい。すぐに着きますから」

 しかし、どういうわけか五月女先生は腕の中で暴れて抵抗する。

「任せられるかっ!?今すぐ下ろせ!」

「でも先生、肩を貸せって仰ったじゃないですか?足もフラフラだし」

「誰のせいだ、誰の!」

「ですから、こうして運んでるんじゃないですか」

「いや、そうだけど、オレが言いたいのはだな…」

 どうにも会話の的を得ないので、言葉に詰まっている五月女先生の相手は後回しにして、さっさと部室のある第二校舎へと向かうことにした。


 家庭科室へと到着すると、すでに森部長と植村部長を筆頭に、裁縫部の皆が勢ぞろいしていた。その中にはもちろん歌敷さんや斎藤さんの姿もあった。

 緊張した面持ちで集まっていた皆だったが、なぜか僕と五月女先生の姿を見た途端に張り詰めていた糸がほぐれるように、皆の顔に笑顔が戻ってくる。

 五月女先生の必死の説明も彼女たちには届いていないらしく、きゃあきゃあと興奮した甲高い声が廊下中に響き渡る。その彼女たちとは対照的に、歌敷さんと斎藤さんの二人はやれやれと呆れ顔をしていた。













 

 






 




















 














 



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