第3話

 自宅の門を抜けて、山道へと入る。

 山道を進んで行くと、林の奥からけたたましい蝉の声が聴こえてくる。クラスメイトたちは毎年の事にうんざりしていると耳にするが、僕にとってはなんとも新鮮な体験に胸が躍った。自分が以前住んでいたイギリスの田舎では、夏でも日本ほど熱くはなく、夏の風物詩と言える物も特になかった。

 しいて言えば、住処の近くにある湖を訪れる人の数が、どういうわけか夏場だけやたらと多かった。

 お婆様に連れられて、何度か湖を訪れた事があったが、湖に面したホテルの前に止めてあるワゴンカーのアイス屋さんでアイスを買ってもらうのが毎年の定番になっていた。そしてアイスを舐めていると、きまって湖の方から白鳥たちがアイスを奪いにやって来るのだった。まだアイスを奪われるだけなら良いが、一度など白鳥に追いかけられて桟橋から落ちたこともあった。

 その日の夜、「晩御飯は白鳥が食べたいっ!」、と駄々をこねたのを今でも覚えている。

「…まあ、今となってはいい思い出…なのかな?」


 林の中を駆け足で抜けていくと、五分ほどで出口の丁字路が見えてくる。

 出口の手前には、二人の顔なじみがなにやら話し込んでいた。

「おはよう、歌敷さん、斎藤さん」

「わっ、おはよう…姫守君」

「おはよう姫守君。今日もうんざりするくらい暑いわね」

 斎藤さんは手でパタパタと顔を扇ぐ。

「ねぇ、ホラ、言わないの?」

 何かを急かす様に斎藤さんは歌敷さんに冷ややかな視線を向ける。

「ん、どうかしたの?」

「いえ、…なんでも歌敷さんから姫守君に話しがあるそうなのよ。でしょう?」

 斎藤さんは同意を求めるように、歌敷さんに話を振る。

「ええっと、どうだったかな~?」

 しかし、歌敷さんは目を泳がせながら頭を捻る。どうやら何か言い辛い事のようだ。

「…まァ、それでいいなら私は何も言わないけど」

「うゥゥ…」

「歌敷さん。何か話し辛い事なの?」

「…はい。じつは…その、話というか、言伝を頼まれていまして…」

「言伝?一体誰から?」

「部長から…あっ、裁縫部の森部長ね」

「ああ、なんだ。あの部長さんか」

 ひと月ほど前、部活見学に裁縫部を訪れた事を思い出す。初対面だというのに、和やかな雰囲気でとても居心地が良かった。きっと森部長の人柄が部全体に表れているおかげなのだろう。

「そう、その部長さんからで、……『近いうちに、もう一度部室に来てもらえませんか?』って事なの」

「それくらいなら全然構わないけど、どういう用件なんだろう?歌敷さんは何か知ってる?」

「ふぇっ?!いや、あの、その……」

ああ、これは間違いなく知っている反応だ。ただ、よほど自分の口からは言いたくはない内容なのだろう。

「斎藤さんは知ってるの?」

「ええ、知ってるわ。でも、ごめんなさい。その…突飛な内容だから私の口からは何も言えないの。これは森部長から直接聞くべき事だしね。それで賛成なり反対なり、好きなを選べばいいのよ」

 裁縫部の部長が何の頼み事があるのだろう?あと、斉藤さんの言う突飛な内容というのがちょっと気になる。

「それじゃあ、放課後に裁縫部の部室に寄らせてもらうよ」

「うう、ありがとう姫守君。…あと、ごめんね」

 なぜ、謝罪したのか若干引っ掛かるものの、これ以上歌敷さんを困らせたくはなかったので、あえて追及はしなかった。


 それから三人で連れ立って学校へと向かう。

 学校へと向かう最中、行きかう学生たちからの視線がどうにも気になってしまう。

 一月あまりが経ち、学校での生活にもだいぶ慣れてはきたものの、こればかりはどうにも慣れなかった。敵意や害意の類ではないのだけれど、かと言って 好意的な物ともどこか違うように感じてしまうため、どうしても戸惑ってしまう。

 試しに、こちらを注視している二人組の女生徒に向かって、小さく手を振ってみると、女生徒たちは「きゃあきゃあ」と驚いたような、興奮したような素振りをみせると、そのまま小走りに走り去ってしまう。

「はぁ…」、と隣で斎藤さんが溜息をつく。

 斎藤さんがこういう反応を見せる時は、決まって誰かがミスをした時だった。つまり、さきほどの僕の行為は誤ったものなのだ。ただ、それがどう誤りなのかが分からない。僕を気遣ってくれているのだろう。その理由を教えてはくれなかった。

 学校での集団生活はまるで気が遠くなるような難解なパズルようだった。


「おはよう」

 教室に入り、いつものようにクラスメイトたちと挨拶を交わす。

 最近はクラスメイトたちともだいぶ打ち解けられるようになってきた。生憎、我が家にはテレビもパソコンもないため、テレビ番組やネットの話題には相槌を打つ程度しかできなかったが、それでも皆気兼ねなく話しかけてくれる。それがとても嬉しかった。

 

 しばらくするとチャイムがなり、学年主任の三木先生が教室にやってくる。現在、このクラスには担任が不在で、新しい担任が着くまでの間は近藤先生が代わりを務めていた。「何着替えがあるのだろう?」、と思うほどに毎日ジャージを着用し、厳めしい顔で生徒たちを見下ろして、常に語気を荒げて話すこの四十代の先生を生徒たちは毛嫌いしていた。が、僕は好きだった。目つきも話し方も、ただの個性であって決して生徒たちを面倒に感じているのではない事は態度ですぐにわかった。


「あ~、そういや新しい担任が決まったぞ」

 出欠確認を取り終えた三木先生は思い出したかのように呟く。

「えっ、一体誰になるんですか?」

 途端にクラスの中がざわつき始める。

「静かにしろ!世界史の五月女先生だ。今年は担当クラスがなかったから、急遽受け持ってもらう事に決まった。明日からの担任だから、そのつもりでいるように」

 それだけ告げると、三木先生は教室を後にする。

「あ~五月女か~」

「当たりっちゃ当たりじゃない?」

「前の川崎よりはマシかな」

 クラスメイトたちは好き勝手に新しい担任を評価する。

「姫守君はどう思う?」

 隣の席の歌敷さんが小声で話しかけてくる

「え、う~ん」

 記憶にある世界史の授業を思い浮かべる。授業中、教壇横の椅子に深く座り、気だるそうに授業を行う髪を金髪に染めた女性教師の姿が浮かぶ。しかし、その態度とは裏腹に、常に視線は小刻みに揺れており、その姿はまるで怯えた小動物のだった。周囲の生徒たちはその様子に気づいていないようだったが、正直どう答えればよいのかよく分からない。

「ふふ、私もそんな感じ。あの先生の授業態度見てると、良いのか悪いのか判断に困っちゃうよね」

「そうだね…」

 良いか悪いかはともかく、個性的であることは確かなわけで、もうそれだけで十分楽しみだった。













「」

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