第20話「さようなら、大切な人たち」

 土砂降りの雨の中を歩く。


 ふと頭をよぎった事はあった。

 このまま獣として生きていたら、いつか動物だけじゃ無く人を手にかけることがあるかもしれないと。

 おぞましい事だ。許されない事だ。

 それ故に、俺は森の奥へ入った。

 自分で村へ行けないように。決して誰にも合わないように。

 これだけ奥まで来たんだから大丈夫だと。

 そして…深く考えないようにしていた。


 今朝、俺の手で人を殺してしまった。

 知らない人だ。村人でも無い。

 なんなら俺を襲ってきたんだから正当防衛と言ってもいい。

 でも…どんなに自分を正当化しても、その罪悪感は消えなかった。


 ただ殺しただけに飽き足らず、あろうことか俺はその人たちの頭を…


 ウォエエエエッ!!


 込み上がる吐き気。思い出しただけで胃液が口元まで上がってくる。

 俺は…この手で逃げようとする人を切り裂いて…食らった。

 もう少しで女性も殺してしまう所だった。


 俺はクズ人間だ。

 殺してしまった人のことを考えて心を痛めているんじゃない。

 俺が人殺しをしたという事実がショックなだけだ。

 思いやりも何も無い、自己中な人間。


 なんならこうやってショックを受けている今ですら、腹が減った、何か食べたい、と思っている自分がいる。

 目の前に人間がいたら、俺はまた殺すんじゃ無いだろうか。

 そうしてそのうち、人を殺してもなんとも思わないようになってしまうんじゃ無いだろうか。


 俺はもう人間じゃないのか…


 獣になってしまったのか…


 自分の手を眺めた。

 人間の子供の手だ。

 見慣れたはずのそれは、しかしどこか違和感を感じる。

 大きな鉤爪が有れば、或いはこの違和感は消えるのだろうか。


 日を追うごとに俺はどんどん化け物に近づいている。

 以前より明らかに意識が飛ぶ事が多くなったし、狩りとなるとほぼ確実に理性が無くなってしまう。


 以前は、獣になった夢を見ているかのようだった。

 夢の中では、何にも囚われる事なく自由に生きていた。腹が減ったら殺し、殺したくなったら殺す。

 今は逆だ。

 普段森を駆け回り、時折人間になった夢を見る。

 そしてそれは決まって悪夢なのだ。


 いずれ完全に俺の中の人間は消えてなくなるんだろう。


 心の中で、何かがストンと音を立てて落ちた気がした。


 もっと早くに認めるべきだった。

 俺は化け物で、とっくに人間じゃ無いって事を。

 そうすればあの人達は死なずに済んだかもしれない。


 いや、違うな。


 あの人達ではなく、俺が死ぬべきだったんだ。

 人間でも無いのに人間だと思い込んで、死んだ方がみんなの為になる化け物なのにまだ幸せを掴めると思っていた。

 とんだ勘違いだ。

 馬鹿みたいだ。


 もう終わりにしなきゃ。


 無駄に生きる事に齧り付くのは辞めて、こんな醜い化け物の俺に相応しい、生涯を閉じる場所を探しに行こう。


 前すら見えなくなる程の大雨が、今はなんだか心地よく感じられた。



「なんでなんだよ…」


 誓って、俺は適当に歩いた。なんの手がかりもなく、気分に任せて歩いたはずだ。

 その結果、俺がたどり着いたのはあの村だった。


 一度は感謝したはずの神様の顔面に泥でも投げつけてやりたい気分だった。

 これはあまりに残酷だ。

 もう二度と来るつもりは無かったのに。


 ここは俺みたいな化け物が立ち入っていい場所じゃ無い。

 またいつ身体が化け物に戻るかわからない。そしたら次こそは家族を傷つけてしまうかもしれない。


 俺は踵を返し、来た道を戻ろうと思った。


 …しかし、どうしても帰路に足を踏み出す事ができない。

 ここは一番入ってはいけない場所であると同時に、俺が最も入りたい場所なのだから。


 死ぬ前にせめて…一言だけ。


 いや、一眼見るだけでもいい。


 遠くから見るくらいならば問題は無いはずだ。

 俺は敢えなく欲望に敗北し、村へと足を踏み入れた。




 バケツをひっくり返したような雨。

 こんな日にわざわざ外に出るような物好きは少ない。

 もう日も落ち始めているし、俺の姿を遠目で見たって俺だとはわからないはずだ。


 …みんなにさよならが言いたい。

 育ててくれてありがとうと言いたい。

 友達になってくれてありがとうと言いたい。

 師匠になってくれてありがとうと言いたい。


 本当は最後に人間としてけじめをつけて死にたいが…

 そうでなくとも、俺が人間だったともう一度確認して、人間として死ねたらこんなに嬉しい事はない。


 俺は足早に自分の家へと向かった。



 見えてきた。既に家の中には明かりがついている。

 こんな雨だというのに掻き消されないお姉ちゃんの声。

 ご飯中だろうか、何を言っているのかはわからないがワイワイと和やかな雰囲気は外にいても伝わった。


 …まさか自分の家に入るのに気後れするとは思わなかった。


 あまりにも眩しすぎる。

 俺は直接中へ入るのを躊躇った。

 俺にはそんな資格は無い気がして、泥棒のようにコソコソと窓まで回り込んだ。


 そこには…


 家族皆んなで食卓を囲む、幸せそうなの姿があった。


 …は?


 俺が居る。

 分かっている。

 あそこに居る俺は俺じゃ無い。

 あの時のアイツだ。


 アイツがあたかも家族の一員のような顔をして、俺の家で、俺が泣いても取り戻せない幸せを、あんな笑顔で、楽しそうに…


      


 一瞬ではらわたが煮えくり帰った。

 今まで生きて来て、初めてぶち殺してやろうかと本気で思った。


 俺がどんな覚悟で家族に会いに来たかわかるか?

 自分が日に日に化け物になっていくのがどれだけ怖かったかわかるか?

 どんな気持ちで…死ぬ事を受け入れたかわかるか?


 ここはアイツの居ていい場所じゃ無い。

 化け物の癖して我が物顔で居座りやがって。

 俺にすり替わって、俺の幸せを奪って。

 楽しそうに笑いやがって。


 あり得ない。

 こんな事もあろうかと、以前ここに来た時偽物に注意するよう散々言っておいたはずなのに。

 どうしてこんな事に…


 いや、そんな事よりも、家族が危ない。

 アイツの本性は血に飢えた獣だ。

 どうしようか…俺は激情に駆られたままの頭で必死に考えた。


 クソッ!!

 何故か全然頭が回らない!


「やぁ」

「…ッ!?」


 何者かに突然話しかけられて、咄嗟に後ろに飛び下がった。


 俺に話しかけてきたのは、俺の偽物だった。


「…ッてめぇ!!!」

「おっと、あまり大きい声を出すと中に聞こえるよ?」


 ソイツは余裕ぶった表情で俺を見ていた。

 上から見てんじゃねぇぞ偽物が。

 俺はホンモノだから、中に聞こえても一向に構わん。

 俺は今にもソイツに飛びかかりそうになるも鋼の心で抑え、決定的な瞬間を探る。


「はぁ、野蛮だね君は。まぁ、中身が化け物なんだから仕方ないのかな?」


 ハァ、とわざとらしくため息をつく。

 その余裕ぶった仕草がいちいち鼻につく。


「化け物はお前だろ!

 お前が偽物だって、家族に言ってやる!」


 少しは慌てるかと思ったが、そいつは俺の事を指差して笑い始めた。


「アッハハハハ!君ってホント馬鹿だなぁ!」

「馬鹿にしやがって…誰が偽物のお前の事なんて信じるか!

 お前のごっこ遊びはもう終わりなんだよ!」


 笑っていたかと思えば突然真顔になる。


「あのね?そんな事したって無駄なんだよ。

 …だって、君、もう大事な事なーんにも覚えてないでしょ?」

「は?…いや、そんなわけ」

「…へぇ、そんな事にすらまだ気付いてないんだ。

 わからないみたいだから教えてあげるよ。

 君の記憶、知識、能力。全部僕が貰ったからね。

 勿論、君の大切な家族や友人も。」


 そんなはずはない。

 俺から記憶や知識を奪ったなんて、にわかには信じられない。

 嘘だ。

 嘘に決まってる!


「言われてもわからないんだ…。

 頭の中、すっかり化け物になっちゃってるみたいだねぇ。

 悔しかったら君の得意な魔法で僕を殺してみなよ!」


 言われるまでもないッ!!

 俺はあの日と同じように、最も得意な水魔法、スプラッシュ・ボールを思いっきりぶち込んでやる事にした。

 勿論魔法陣が無いので無詠唱だ。


「スプラッシュ・ボールッ!」


 …何も出ない。どうしてだよ。


 この魔法を失敗したのは初めての事だ。

 まさか本当に…?

 いいや…まだ信じられない。

 俺は続けて似た系統の水魔法に切り替える。


「ハイ・ウォーターブラスト!」


 …やはり何も起きない。


「ハイ・ウォーターブラスト」


 差を見せつけるかのように、目の前のそいつは一言呟いた。

 圧倒的な質量の流水が俺目掛けて指向性に発射される。

 俺は水に流される虫のように、数メートル吹き飛ばされた。

 雨の水で溢れてドロドロ畑の中に落ちる。

 悔しくて悔しくて、俺は雨で抜かるんだ泥の地面を殴りつけた。


 その手は既に、巨大な鉤爪が生えた化け物の手に変わっていた。


「アッハハハハ!滑稽だよ!

 自分が一生懸命練習した魔法でやられる気分はどうだい?

 化け物になって、大切な家族を奪われる気分はどうだい?

 ねぇ、今どんな気持ち?

 教えてくれよぉ!」


 とことん歪んだ俺の顔が目前に迫る。

 その顔は相変わらずの嗜虐性と残虐性に塗れていて、理性が加わった分より狂気に満ちた危険性を孕んでいた。


 外で騒ぎ過ぎたのか、家から声が聞こえてくる。


「キャロル!何してるの?ご飯無くなっちゃうよ!」

「はーい。お姉ちゃん、今いくよ!」


 この声は…


 …お姉ちゃんの名前が思い出せない。

 お父さんの名前も、お母さんの名前も。

 友達の名前も、師匠の名前も。


 何もかもが、この化け物になった掌から水のようにこぼれ落ちてしまった。

 俺にはもう、何もないのか。

 理性も魔法も、思い出も。


 身体が化け物に戻っていく。

 涙が…枯れていく。


 人間であった証すらも、奪われるのか。


「…ガェじでくれょぉ。ヴォれの…ガ、ゾ、グ…。」


 これが最後の声になる。何故かそんな予感がした。


 地に伏した、醜い声を発する泥に塗れた化け物。

 それに向かっては口角を上げて言った。


「君のじゃない。のだ。」




 ☆


「キャロル、何してるのー?」


 家からリーゼが出て来た。

 そこには土砂降りの中、満面の笑みで一人で立っているキャロルの姿があった。


 そしてその見つめる先には、足を引きずりながら逃げるように消えていく人影。


 リーゼは少しだけ困惑しながらも、キャロルを家に引っ張った。


「どうしたのよ、風邪ひいちゃうわよ」


 家に入るとお母さんが心配してタオルをかけてくれる。


「僕の偽物を見つけたんだ。

 大丈夫、明日には全て終わるから。」


 キャロルはそう言って無邪気な笑みを浮かべるのだった。


 ☆


 お姉ちゃんがやって来る気配がして、ひたすらに逃げた。

 本当は逃げるべきじゃなかった。化け物と罵られても、あいつを殺さなきゃならなかった。

 でも、もう俺にはそんな気力は残っていない。

 最早名前すら忘れてしまった化け物である俺は、お姉ちゃんの姿を視界に入れる事すらも怖かった。


 逃げる間にも、身体中に激痛が走って変身している。

 前よりゆっくりと、しっかり身体が変化していくのがわかる。

 もう二度と人間には戻れない。そんな確信があった。


 グッ


 ちょっとした石に蹴躓いて転んだ。

 雨で地面がぬかるんでいる上、変化の痛みで足を引きずっているからだ。


 まもなく俺は完全に人間じゃなくなる。

 それまでに早く北の森の奥へ行かないと。

 もう二度と理性が戻らないかもしれない。


 何もかも無くした俺は、人間である意味を失った。

 人間としての俺はもうすぐ死に、森の中で化け物として生きる事になるのだろう。

 いずれ師匠が俺を殺しに来るだろうけど、それで構わない。


 心も化け物になってしまえば、もう自分を責めたり悩んだりする必要は無い。

 苦しかった。

 自分が自分じゃなくなるような感覚が。

 間も無くそれも終わる。


 家族の事は心配だが、きっと師匠がなんとかしてくれるだろう。

 俺は精一杯やった。

 よく頑張った。


 これが最後の仕事だ。せめて自分のケツは自分で拭かなきゃな。


 重い身体を持ち上げて、俺は一歩、また一歩と歩き始めた。

 さてもうすぐ。もう少しで森の入り口だ。


 パシャッ


 ん?

 俺の後ろで不自然な音がした。

 何かが落ちる音、いや、誰かが水溜りを踏んだ音か?


 俺は静かに振り返った。


「…い、いやぁ」


 そこには土砂降りの中、何故か傘を持って佇む幼い女の子の姿があった。


 …この子は、知っている。

 友達だった。毎日のように遊んだり、修業したり、時には俺の為に泣いてくれたりした優しい子だ。

 ちょっと素直じゃ無いけど、たまに甘えて来て可愛かった。


 俺が振り返った事で、この醜い姿に驚いて水溜りの中で尻餅をついてしまったみたいだ。

 びしょ濡れで大変だ。

 俺は彼女を引き上げてやろうと思って、ゆっくりと手を伸ばした。


「…ひ、ひぃ」


 怖がっているみたいだ。そりゃそうか。

 でもまぁ、最期くらい人間らしく振る舞わせてもらおう。


 俺は優しく、鉤爪で彼女を傷つけないように引き上げた。


 しかし、俺の配慮は虚しく、彼女の細い腕には小さな傷がたくさん出来てしまった。

 じんわりと血が滲んでいる。

 どうやら俺の手には毛の下に無数のトゲがあったらしい。


 俺のエゴは最後の最後まで裏目にしか出ないんだな。

 自嘲気味に笑う。俺が笑うその姿すらも、彼女にとっては恐怖の対象でしか無いみたいだった。


 さぁ、行くか。


 じゃあな。名前も知らない友達。

 今までありがとうな。


 俺はその子を怖がらせないようにゆっくりと後ろを向き、森の中へと入っていった。


 背中に視線をずっと感じていたのは何故だろうな。

 まぁ今となってはどうでもいい事だが。

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