第19話「悲しき獣」
森の中に逃げ込んで二日程経った夜。
暗い森の中で、俺は独り狩りをしていた。
以前の失敗を踏まえて、俺はより効率の良い狩りの方法を考えた。
それは即ち息を潜めて待つ方法。
ヒット数は少ないものの、成功率が高い。
ガサッ
…!!
落ち葉を踏んだ音。獲物が近くにいるようだ。
しかしまだ動かない。
動物達は月明かりのない森の中では十分に物を見ることが出来ない。
それは俺も同じだが、何度か試した所、俺の方が比較的夜目は良いようだ。
だから動きさえしなければ、動物は俺の姿を察知出来ない事が多い。
絶対に殺れるその時まで、息を潜めて静かに待つ。
視界に入ってきた今回のターゲットは、小さな野ウサギ…ではなく、それに一角がついた魔獣。
名前は…忘れてしまった。
良い毛並みだ。ツヤツヤで…こう言う個体は栄養状態が良い。
加えてまだ若いメスのようだ。
きっと肉も柔らかく、冬に向けて脂肪をいい感じに溜め込んでいるに違いない。
最高だ…!
アレに牙を突き立てるその時が待ち遠しくて仕方がない…
俺はよだれが垂れないよう締まりの悪い口を僅かに上に向けた。
ウサギは俺が潜んでいるとも知らずに、水飲み場のそばにピョンと跳ねて寄ってきた。
いい位置に来たな。自ら俺の口に飛び込んで来たいと見える。
俺の姿が見られてからコイツが慌てて逃げようと後ろを向くまでの一秒間。
この間に俺の爪で一突きだ。
いくぞっ!
…狩は文字通り一瞬だ。
それが瞬きしたと同時に、俺は右手を大きく突き出した。
結果はもちろん成功だ。
俺の片手に収まるサイズのウサギ。ボリュームは少々物足りないが、新鮮な肉は何にも替えがたい。
まだ完全に死んではいないのか、胴体を貫かれていながらも手足がピクピクしている。
新鮮でとても旨そうだ。
本当ならそのまま踊り食いしたいが…もっと口の中で暴れてくれないとつまらないかなと思い直す。
俺は早速ウサギを仰向けにひっくり返し、腹の正中線で思いっきり掻っ切った。
たちまち溢れ出す極上の赤い汁。
俺はそこに自分の顔を突っ込み、そのまま臓器ごと赤い汁を啜った。
ついさっきまで生きて動いていた臓物を口いっぱいに頬張る。
ああ、なんてジューシーな味わいなんだ。
吸って、ちぎって、噛んで、飲み込む。
夢中でそれを繰り返していたら、いつの間にか骨と皮ばかりになってしまった。
肋骨の間の肉や、皮の裏にへばりつく肉や脂肪も勿体ないので、全てしゃぶり尽くす。
そして最後は頭だ。
頭は最高に美味い。
ゴリゴリと噛みごたえのある頭蓋骨と、そこに付いている沢山の肉、そこを砕くと脳みそから温かいスープがたっぷり染み出してきて、味に飽きがこない。
脳は柔らかい明太子のようで少し物足りない食感だが、スルメのような太い神経が何本も入っているから食感厨の俺も楽しめる。
少し甘めの脳みそを頂いたら、眼球や舌と言ったフレッシュな味わいの部位を俺の長い舌で、転がしながら堪能出来る。
そんな感じで、頭は最後の最後まで楽しませてくれるメインディシュなのだ。
ふぅ…。
宵闇の中、誰も見ていない森の奥で独りの獣が食事を終えた。
…またやっちまった。
狩りを終え、一時的に腹を満たした俺は必ず一度正気に戻る。
俺は自分の手や歯にこびりついた肉片を感じ、とても気持ち悪くなった。
オェエエエ!!
水場で吐こうと思って、口を開いて中に手を突っ込もうとするも、手があまりにも大きいので断念した。
諦めて水をたらふく飲んで、肉片を洗い落とした。
おかげで口の中の鉄臭さが幾分和らいだ気がする。
そこで少し冷静になる。
…吐くのは違うな。
俺が生き残るために犠牲になってくれたんだ。
吐くのは一番駄目だ。
人間として暮らしてた時だって、狩りで取ってきた動物を殺して肉にして食べてたじゃないか。
それと何が違うんだ。
食べ方がちょっとワイルドなだけで、むしろ普通食べないような所まで平らげているから殺された獲物としては本望じゃないだろうか。
人間としての尊厳を忘れるな。
犠牲になった食に感謝を忘れるな。
人の心を忘れるな。
よし、俺はまだ大丈夫だ。
…早く、人間に戻りたい。
☆
近頃は正に生き地獄だった。
前からわかっていた事だが、この身体は異常な程にお腹が減るのが早い。
おかげで一日中食べることしか考えられなくなってしまった。
勿論新しい狩りによって食事情はまだマシにはなった。
とは言え、運良くこの水場に動物がやって来てくれる事はそれほど多くないので、圧倒的にカロリーは足りていないままだ。
お腹が鳴る音で折角の獲物に逃げられた事もあった。
腹が減ると、気が狂いそうになる。
冗談抜きで、お腹が空き過ぎた結果、意識を無くしてしまう事が何度かあった。
そして目が覚めたときには、獲物を口にくわえていたり、既にぐちゃぐちゃで何かわからない肉を咀嚼していたりするのだ。
今みたいに、食事が終わった直後だけは割と頭が働くんだが、直ぐに頭が朦朧としてきて、まともにものを考えられなくなる。
そして一旦狩りが始まると残虐性が増して、飢える獣そのものの行動になってしまうのだ。
俺は一日の大半を、本当の獣のように過ごしていると言う事だ。
こうやって冷静になった時、止め処ない自己嫌悪が波のように押し寄せてくる。
狩りをした記憶やその時の気持ちは丸々覚えていて、心の底から嗜虐心と食欲で満たされていた事を嫌でも理解させられる。
獣の性が人としての理性を完全に上回り、欲望のまま痛めつけて殺す事に快感を覚えている。
ただ食べる為に殺すのでは無く、生き物の命が消える瞬間を、目の色がくすんでいく様子を楽しんでいる自分がいる。
…これじゃあの化け物と何も変わらないじゃないか。
日に日に化け物に近づいていっているような気がして、もう気が気じゃない。
焦り、恐怖、困惑で気持ちが悪い。
どうしたら戻れるだろうか。
戻りたい。あの家族の元へ。
戻りたい。人間だったあの生活へ。
…戻りたいよぉ。
泣きたい筈なのに、最早涙すら出せないみたいだった。
☆
明け方頃からシトシトとふり始めた雨は次第に激しくなり、木々の合間を縫って森の中を静かに湿らせていた。
人間ならば、こんな肌寒い日には家で本でも読んで過ごすのだろうが、動物にとっては関係ない話。
雨で柔らかくなった腐葉土の下にあるキノコを掘って探している動物の群れがあった。
パリ、パリ、パリ
湿った落ち葉を踏んで警戒心無く歩いているのはメラトキシンボアの群れ。
身体の表皮には沢山の吹き出物のようなぶつぶつが沢山あり、そこからメラトキシンという毒物を分泌している毒性イノシシである。
とある毒キノコを好んで食す種類で、そのキノコの毒を体外へと排出出来るため、どんな強力な捕食者からも狙われない。
加えて、常に群れで行動する上一体一体の身体が通常のイノシシよりも大きい為、並の魔獣が愚かにもこのボアの群れに飛び込んだところで逆に殺されるのが落ちであろう。
それ故にこのボア達は警戒という文字を知らない。
この森は自分達のものだと言わんばかりの振る舞いを見せて居るのである。
「グウウ…ヴヴヴゥォオォオ…」
どこからか低い唸り声が聞こえてくるが、ボア達は気に留めない。
たとえ威嚇されようが、本気で狙われる事は絶対に無い。
それがわかっているからだ。
しかしその認識は今この場所では例外であった。
茂みからフラフラと姿を現したのは異形の化け物。
灰色の熊のような見た目だが、目が8つあり、それぞれがギョロギョロと別の方向を向いている。
口からは長い舌が地面に付くほどに垂れており、無数に生えた牙は口の中を埋め尽くす程ビッシリであった。
荒い息がハァハァと口から漏れて、股間にある男性器は完全にいきり勃っている。
獣よりも獣性が露わになっている獣。
さしものボア達もここまで純粋な殺意を敵から感じた事はなく、その生涯において初めての警戒をした。
十匹弱で固まって、中央の子供を囲う。
ボアは猪突猛進。
突進の破壊力に長けた動物であり、その破壊力を持ってすればここの森の中でも戦闘力はかなり高い方である。
しかし、この化け物の前では小動物と等しく無力であった。
突進して来たボアの勢いを利用して、脳天を凶悪な爪で突き刺す。
力尽き、その場で崩れ落ちるボア。
対する化け物は全くの無傷。
ボア達は警戒を強め、ブルブルと鼻を震わせて威嚇する。
その様子にニタリと広角を吊り上げた化け物は、ゆっくりと群れへと近づいていく。
痺れを切らしたボアが次々と突進し、一匹、また一匹と死んでいく。
数分後、果たして最後に残ったのは怯える子供のボア一匹だった。
「プヒ…プヒィ…」
脳天を打ち抜かれて死んでしまった親ボアに鼻を摺り寄せながら、悲しげな声を発する子ボア。
死んでしまったのがわからないのか、親ボアの脚の一本を口でくわえて一緒に逃げようとしているようだった。
「ヴァハハハハ!!!」
化け物はその様子を嘲笑うかのように低い雄叫びを上げた。
そして…
「ピギィ!!」
子ボアを軽く払い除けると、親ボアの頭を潰し、何度もその爪で串刺しにした。
雨に混ざって広がる血溜まり。それを見てピィピィと泣き叫ぶ子ボア。
やがてその遊びも飽きて来たのか、化け物の全ての視線が子ボアに集まる。
子ボアはそれでも、親ボアの死体から決して離れないようだった。
健気にも親と一緒に死のうとする子ボアに化け物の長く凶悪な腕が迫る。
そして、今にもその幼い命を貫こうという時だった。
「見てられないわ!こんなの!」
謎の声と共に一人の影が木の上からサッと降りて来て、化け物の目を目掛けて弓矢を放った。
化け物の視線が完全に子ボアへと向いており、尚且つ不意を突いた攻撃だった事も功を奏し、八つあるその目のうち一つにしっかりと命中した。
噴水のように勢いよく血が吹き出した。
「さ、逃げるわよ!」
化け物の視線の全てがその人影に向いた。
フードを深く被り、全身黒装束の小柄な人間であった。
子ボアを脇に抱えて逃げようとしたようだが、それはあまりにも無謀な挑戦である事は本人も理解はしていたのだろう。
連れの人間にサポートを依頼する。
「ヘイト頼んだわ、二人とも!」
「ったくふざけてんなぁ」
「さぞ報酬は弾むんでしょうね」
別の木の上から二人の大柄な黒装束の人間が現れ、交互に矢を放っていく。
その矢は全てが的確に目だけを狙ったものであり、化け物の注意は嫌でもその二人に向いた。
その隙にボアを掴んだ小柄な人間は遠くへ走っていく。
化け物は怒りを覚えた。
愉しい虐殺の時間を邪魔されただけで無く、己に傷を付け、獲物を横取りされた。
こんな屈辱は、生まれて初めての事だった。
今すぐに全員殺さないと気が済まない。
化け物は次々に飛んでくる矢を無視し、ヘイトを買っている二人の所へ一直線で走った。
当然一本二本と目に矢が命中するが一向に怯む様子は無く、速度も全く衰えない。
二人は心底震え上がり、ヘイト管理も忘れて走って逃げ出す。
そしてものの数秒で、二人の頭と胴体は別れる事となった。
化け物は胴体を投げ捨てると、その頭をバリバリと食らった。
するとみるみる潰れた目が再生し、刺さった矢は抜け落ちて元どおりとなる。
化け物は八つの目で既に小さくなった人影を見据える。
その口元は嗜虐的な笑みを浮かべてガチガチと鳴っているのだった。
「…さぁ、もうここまで来れば大丈夫ね。」
黒装束の人間はそう言って子ボアを下ろし、深く被ったフードを脱いだ。
季節は秋だが、色々な汗をかいて気持ちが悪かったからだ。
フードを取ったその人間の耳は尖っており、溢れた髪は色素の薄い金色。
長い髪が雨でしっとりと濡れていく。
その人物は美しいエルフの女性だった。
「貴方、大変だったわね。可哀想に…。」
小さくても吹き出物はしっかりある子ボアだが、エルフの女性はそんな事はお構いなしに頭を優しく撫でる。
子ボアは気持ち良さそうにピィと鳴き、黒装束に顔を擦り付けた。
「…親が居ないと大変よね。これからどうするの?」
頭を撫でながら尋ねると子ボアは小さな瞳で上目遣いに見上げてきた。
くうっ!!と大袈裟に声を上げたエルフの女性。どうやら可愛さにやられたらしい。
「私の所に、一緒に来る?」
「ピギィ!!」
子ボアは元気よく答え、エルフの女性も慈愛に満ちた表情でその頭を撫でる。
そんな一時を破るように、突然木の上から二つの大きな影が落ちてきた。
「なっ!?こ、これは!?」
木の上から落ちてきたのは、頭を失った二つの男の死体。
先程女性がサポートをお願いした二人であった。
「…そんな…彼らがこんな簡単に…。」
女性が絶望する姿を見て、奇妙な笑い声を上げたのは先ほどの化け物だった。
突然後ろから化け物の声がして腰を抜かすエルフの女性。
女性を守るように子ボアが化け物に立ち向かったが敢えなく吹き飛ばされ、化け物は何事もなかったかのように歯をカチカチ鳴らしながらゆっくりと近寄ってくる。
その化け物の男性器は完全にいきり勃っていた。
先の二人が殺されたなら、絶対に自分に勝ち目は無い。きっと犯された後で殺されるのだろう。
気持ち悪い顔。気持ち悪い笑い方。気持ち悪いモノ。
こんな気持ち悪い生き物に、屈してたまるもんですか!
エルフの女性は子ボアを後ろに庇うようにして、化け物をキッと睨みつけた。
絶対に屈しない。その心を奮い立てるように、女性は化け物に対して大声で怒鳴った。
「この、人殺しっ!」
「…ゥッ!?」
怒りに任せて放ったその一言で、何故だか化け物の動きが止まった。
頭を抱えて悶えているように見える。
男性器は縮み、心なしか一瞬理性が垣間見えたような気すらした。
そんな事はどうだっていい。何が起こったのかはわからないが、このチャンスを利用しない手はない。
エルフの女性は素早く子ボアを抱え、森の奥へと消えていった。
「…ぅ…ぼくは…なんて事を…」
後に残ったのは一人の子供の姿。
自分のやってしまった事を悔やみ、雨の中血の涙を流して慟哭する悲しきキャロルの姿であった
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