第18話「泡沫の夢」

 淡い木漏れ日が目に飛び込み、目が覚めた。

 鳥の声が森のドームに煩いくらい響いている。


 気を失うように寝ていたが、どうやら空腹で死ぬような事はなかったらしい。

 とは言え、おかげで今日も地獄が始まるのか、という恨み言しか出てこないが。


 のそりと起き上がる。身体が軽い。

 なんだ、あまりにも何も食べてないから軽くなったか?


 俺はなんの気無しに自分の身体に目を落とした。


「…ッ!?」


 なんて事だ。

 これまで生きて来て、これ程嬉しかった事があるだろうか。

 そこにあったのは灰色の毛でも殺傷性の高い凶器ばりの手でもない。

 白に近い肌色の身体。短い指、腕。

 その手で顔を触る。輪郭を縁取る。

 シュッとした顎、スッと通った鼻筋、薄い唇。

 うん。イケメンの顔だ。


「戻ってる…!!」


 声が出た。人間の…キャロルの声だ。

 これは夢じゃないだろうか。

 漫画でよくある頬をつねってみるアレをやってみる。

 普通に痛いので…夢ではない。


「やった!!やったぞ!!!」


 どうして元に戻れたのかは全くわからないが、とにかくその事実が嬉しすぎてその場ではしゃぎ回った。



 …ふぅ。

 一頻り騒いだ俺はひとまず落ち着いて、近くの倒木に腰かけた。


「ここは…どこだ?」


 声を出せるのが嬉しくてつい独り言を言ってしまう。


 昨日意識を失ったのは小川のそばだったはず。鹿を取り逃して絶望感を感じ、その場から一歩も動いていない。

 それなのに、どうして俺は別の場所にいるんだ。


 こういう高低差のない森というのは、一度迷うと方角を確認するくらいしか抜け出すことが出来ない。

 あらゆる景色が同じに見える上、俯瞰する事ができないので自分の現在地を見失うからだ。


 今だって…やっぱり、見覚えがない…いや、ん?

 森の中をキョロキョロと見回す。

 日差しがいい感じに差し込むこの場所…

 明らかに森の浅いところだ。


 これはもしかして…


 村が近いんじゃないか?




 予想は的中した。

 俺が寝ていた場所は村にとても近い林で、30分ほど歩いた所で村が見えてきた。


 なんて事だ。

 こんな事があるなんて、もしかして神様か?

 あれだけ厳しかった現実は、まるで神様がいるとしか思えない程に掌を返し、俺に優しくなった。

 俺はいるかいないかわからない神に初めて心から感謝を捧げた。




 村は思ったより静かだった。

 いつもなら日の出と共に農作業を始める人が結構いるはずなのだが、今日はそんなに出回る人が居ない。

 そういえばもう収穫祭は終わったくらいの時期だ。

 冬に備えて家で内職する人が多いのかもしれない。


 とりあえず実家に戻りたい。

 心配しているだろう家族にただいまと言って、それから風呂に入って、そのあとゆっくり身体を休めたい。


 俺は実家を目指して歩いた。



 実家の近くまで来ると、リーゼとお父さん、お母さんが外で俺を探し回っている所だった。

 俺の姿を見つけたリーゼが大声で走って来る。


「キャロルー!!!」


 俺はなんだか嬉しくて、少しだけウルッと来てしまったが、既のところで踏みとどまった。


「お姉ちゃん、ただいま」


 全力で走ってきたリーゼに強く抱きしめられた。

 硬い胸が当たる。

 以前は骨の感じだったが、今は大胸筋を感じる。リーゼも鍛えてるんだな…。


 お父さんお母さんも走ってきて、家族皆んなで抱擁した。


 心がとても暖かくなった。




 慣れた家に帰ると、家が汚れるからとまず木や泥で汚れた服を脱がされた。

 その後風呂に入り、さっぱりしたところでお母さんから質問が飛んできた。


「突然居なくなって、一体どうしたの?心配したのよ?」


 突然居なくなった、か。

 たしかに、俺はあの時からだいたい一日半くらい無言で家を空けていた事になるからな。


 正直に話してわかってくれるか微妙だけど、別に信じてもらえなくてもいい。

 辛かったことを打ち明けられる、こういう場所があるってとても幸せな事なんだなと思えた。


 俺は今まで自分がしてきたことを全て話した。

 何故か化け物になったことも含めてだ。


 するとその反応は思いもよらないものだった。


「キャロル、あなた昨日は一日中、私達と一緒に居たわよね?」


 …ん?

 昨日は人生で最も苦しい一日を森で過ごしていたのだが。


「あなたが突然居なくなったのは昨日の夜じゃない。

 何処かで夢でも見ていたのね。」


 …なんだ?話が合わないな。

 昨日の夜居なくなった?夢でも見ていた?

 確かに俺が化け物になっていたのは今でも信じられないし、夢だったんじゃないかと疑うのはわかる。

 でも…あれは間違いなく現実だった。


 昨日、俺は間違いなく森にいた。


「覚えてる?昨日のキャロルはちょっとおかしくてね、ママ子供みたいにワンワン泣いちゃったのよ。」

「おかしいって、どういう風に?」

「何を言っても反応してくれないし、ママの事も忘れてるみたいだったわ。

 でも、日が暮れる頃には大分回復してたわよね。

『お母さん』って呼ばれた時は驚いたけど…

 その時の事は覚えているでしょ?」


 いや、覚えてない。

 覚えているわけがない。

 最悪な考えが頭をよぎる。


 汗がスッと引いて、鳥肌が立った。


 もしかして、そいつは…昨日この家にいたソイツは…


 あの時床で倒れてたアイツじゃないのか?


 …自分の事で手一杯ですっかり忘れていた。

 俺が化け物を倒した後、何故かアイツが俺になり、俺が化け物になった。

 じゃあアイツは?アイツは何者なんだ?

 もしかして…化け物の中身なんじゃないだろうな。

 いや、最早そうとしか考えられない。


「キャロル、どうしたの?顔色悪いわよ?何処か悪いの?」


 お母さんが俺の顔を覗き込んでくる。

 こうしちゃいられない。


「ママ、パパ、お姉ちゃん。僕の話、よく聞いて欲しい。」


 ☆


 俺は昨日家にいた奴は俺の偽物だと話した。

 俺が化け物になり、化け物がかわりに俺のフリをしていたと。

 しかし、案の定その反応は芳しく無かった。


「…キャロルの事信じないわけじゃないけど…ママ、悪い夢でも見てたんだと思うわ。」

「パパもそう思うぞ。

 思えば昨日のキャロルは夢の中にいるような感じだったなぁ。」


 お母さんとお父さんは信じていないみたいだ。

 夢を見ていたと言われたら反論出来ない。

 夢じゃないと俺がいくら力説したところで説得力は無いからな。


 勿論こんな荒唐無稽な話を一発で信じてもらうのは難しいだろうけど…どうしたらいい…。


 アレは正真正銘の化け物だ。

 呼吸をするように人を殺し、嫌らしい顔でニタリと笑う。

 血を浴び、肉を食う事に無上の喜びを感じる殺戮モンスターだ。


 このままでは…。

 あの化け物がいつ俺のフリをして俺の家族を殺すかわからない。


 どうしたらいい…。

 師匠に話して家族を守ってもらうか?

 でも、師匠も信じてくれなかったら…?

 俺がまた撃退するか。

 そしたらまた俺が化け物に戻ってしまうのか?


 ああ…どうすればいい…

 頭を抱える。


「私は信じるよ」


 俺の様子を見ていたリーゼがポツリと言った。

 俺は顔を上げてリーゼを見た。

 目と目が合う。

 彼女の瞳は俺の心まで覗いていると感じられるほどに澄んでいた。


「昨日のはわかんないけど…

 でも今ここに居るキャロルは間違いなく本物よ!

 私にはわかるの!」

「お姉ちゃん…!」


 特に理由の無い直感的な感じがリーゼらしい。

 でも俺にはそれが嬉しくて、思わず涙が出そうになった。


「昨日のキャロルは変だったわ。

 何考えてるのか全然わからなかった。

 初めて会った人みたいだった。

 …それに…私の事、『リーゼ』って呼んだのよ!」


 …なんだそれ。

 リーゼって呼んだら別人なんか?

 俺はそのヘンテコ理論を大真面目に語るリーゼがなんだかとても可笑しくて、ついプッと吹き出して笑ってしまった。


「ちょっと!どうして笑うのよ!」

「いや、お姉ちゃんらしいなって思って…」


 もう、なんなのよ!とぷりぷりしているリーゼを、まぁまぁ、と適当になだめる。

 その様子を見てか、お父さんとお母さんも納得し始めた。


「確かにそう言われると、昨日のキャロルは変な感じだったわね。

 よく考えたら、キャロルが私の事忘れるわけないわ。

 キャロルは私の事大好きですもの。」

「確かに、キャロルはママが大好きだもんな。それに今のキャロルはなんだかいつものキャロルって感じだ。」


 …おいおい。なんだその理屈は。

 俺がめっちゃマザコンみたいな口ぶりじゃないか…。

 別に特別好きってことはないぞ。

 人並みに、子供は母親に懐くものであって…俺が特別お母さんが好きって事はない筈だ。

 普通くらいだ。うん。


「…キャロルは私の事も好きよね!」


 隣で謎にお母さんに対抗し始めるリーゼは放っておく事にした。


 ともかく、経緯はともあれ俺の言うことを信じてもらえたのが何よりの収穫だ。


 これで偽物の俺に騙される事は無くなるだろう。

 警戒を怠らず、師匠と村長にもなんとか信じて貰えるよう話をしておこうと思う。



 師匠と村長はあっさりと信じてくれた。

 実際に化け物を見たというのもあるし、何より昨日の俺の様子に違和感を感じていたらしい。


「記憶無くすとか、幼児退行するとか、植物人間になるとかなら全然わかるんだけどね。

 記憶なくしたかと思えばわずか半日で取り戻し、次の日の朝には完全復活とかちょっと信じ難いんだよ。」


 それならば、君の言う事の方がしっくり来るし理にかなう。

 師匠はそう語った。

 理論的な所がとても師匠らしい。


 家族が化け物に襲われないよう注意してほしいとお願いしたところ、二人は快く承諾してくれた。

 なんでだろう。久しぶりだからなのか知らないが、いつもより二人が優しい気がした。


 一応リィリィの家に行って、ハピィやサイファー、ライザさんとフィーラさんにも所々端折って注意を促しておいた。

 俺が化け物になった件は流石に話せなかったが、家族が困っていたら助けてほしいと言ったら任せておけ、と言ってくれた。




 夜になり、久々に四人一緒にご飯を食べる。

 そういえばあんなにも空腹で死にそうだったのに、今日は全然普通だった。

 なんなら今ご飯になって、初めてお腹が空いていることを思い出したくらいだ。

 やはりよほどあの化け物は燃費が悪いのだろう。


 今日もリーゼががっついてボロボロと食べ物を下にこぼしている。

 お母さんがそれを指摘して注意し、お父さんがなだめる。

 そんな日常がここにあった。

 あんな経験をしたからか、なんだかそれがとても大切に思えて、ずっと見ていられる。


「キャロルも早く食べなさいね。

 ママご飯のお片付けした後、洗濯物畳まなきゃいけないの。」

「はーい。」


 なんだかとてもほっこりした、久々の一家団欒だった。


 ☆


 その日の深夜。

 家族みんなが寝静まった後だった。


 突然の激痛が俺を襲った。

 顔も、体も、手足も、全部が焼けるように痛い。

 本当に燃えているんじゃないかと思うほどのあまりの苦痛に悶え、苦しむ。


 皆んなを起こして村長か師匠を呼んでもらおうかと思った。

 しかしあまりの激痛からなのか声が出せない。

 なんとか立ち上がろうとして、ベットから転がり落ちる。


 ドスッ


 木の床が軋む程の重量感。

 なんだ?なんでこんな重い?


 俺は視線を落とし、そして再び絶望した。


 俺の身体はどんどん膨れ上がり、手の爪は伸び、灰色の体毛がわさわさと生えてきていた。


 なんで、どうして。


 わけがわからない。


 今朝人間に戻ったじゃないか。

 なんでまた化け物に変身しなくちゃならないんだ。


 戻れ、戻れよ!!!


 俺は自分の手をもう一本の手で絞め殺す程に押さえつけた。

 これ以上大きくなるな、頼むから。


 しかしその甲斐虚しく、俺の身体は間もなくすっかりと化け物へと変貌してしまった。


 …まずい。

 とにかくここにいたらまずい。

 悲しみに明け暮れている場合ではない。


 北の森へ行こう。とにかくこの巨体を隠すにはあそこしかない。

 俺は急いで家の外へ逃げ出した。



 暗い森の奥へとどんどん入っていく。

 帰ろうと思っても帰れないように、ぐねぐねと出鱈目に方向を変えて歩く。


 …あの場にあと少しでも長くいたら不味かった。

 今の俺の醜い姿が家族に見られるのも嫌だが、それ以上に。


 今、俺は死ぬほど腹が減っているのだ。

 それこそ、近くで寝ていたリーゼを見てよだれが垂れるほどに。


 リーゼを見てよだれが垂れる自分が嫌だ。

 この異世界で出来た大切な家族だろ。

 こんな煩悩だらけの俺の事、無条件で信じてくれる優しい姉だろ。

 なんでその姉を…美味しそうだなんて思うんだよ…。

 自己嫌悪で死にたくなる。


 でも、もう死ねない。

 もう一度人間に戻れるかもしれないから。

 もう一度、人間の姿で家族に会いたい。

 次人間に戻れるまで、俺はなんとか森で生き抜いてやる。


 昨日よりも空腹はずっと辛かったが、生きる気力には満ちていた。




 しかしその後一日経っても二日経っても、俺が人間の姿に戻る事は無かった。

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