第十三話 同じ世界でも二十年も経てば別世界になるらしい
様々な混乱と押し問答の末、俺はようやく家に招かれることになった。
マコトの母親……ミノリさんが「自分で登るから降ろして」とジタバタすると、オーエンさんは抱き上げたミノリさんを見詰めて「俺が君と離れたくないんだ。しっかり捕まっていてね」と囁く。
背の高いオーエンさんの首筋にしがみついているミノリさんを見ると、まるで子供みたいに見える。マコトよりもさらに小柄だ。背の高いオーエンさんの腕の中にすっぽり収まって隠れてしまうくらい。多分俺の顎くらいしか背丈がないんじゃないだろうか。
「あの二人は放っておいて良いから。先に登ってよう」
マコトはとても疲れた顔でさっさと階段を登り始めた。
限界が聞き入れられずにストライキを起こしかけていた足をなんとかなだめて覚悟を決めると、マコトの後に続いて、俺も階段を登り始めた。
一階分ならそんなに高くないだろうと思っていたのだけど、実際に登り始めて足元を見たら想像以上に高く見えて足が
なんとか登り切って、床の上で膝をついて息を整えていると、マコトに笑われた。
「階段登るのもダメなの? それとも高いの苦手? ……大丈夫?」
「いやー……下が見えると落ちそうな気がして」
マコトは笑いながらも手を差し伸べてくれて、俺はお礼を言うとその手をとって立ち上がる。
ちょうどその時、ミノリさんを抱えたオーエンさんが階段を登ってきた。オーエンさんは、俺がマコトの手を掴んでいるのを見て、あの氷のような目で俺を見た。
その父親の様子に、マコトの表情もまた冷たいものになる。小さく「馬鹿じゃないの」と呟くのが聞こえて、俺はただ沈黙することしかできなかった。
マコトに促されるままに家にお邪魔した。
テーブルと椅子と、少しの棚が置かれた小さな部屋だった。室内にドアがあって、壁の向こうはプライベートスペースなんだろう。
部屋に到着した時にミノリさんがオーエンさんの服を両手で掴んで「お腹がすいたから何かお昼ご飯が食べたい、できれば暖かいのが良い」と言ったら、俺の方を何度も見た後にしぶしぶといった感じで、ミノリさんを床に降ろした。棚の上に置かれていた籠と鍋を持って、オーエンさんは何度も振り返りつつ家を出ていった。
森の中なので火の扱いは厳重で、集落に何箇所かある炊事場でしか火を使えないのだそうだ。
「さ、今のうちに話を進めよ。オーエンも悪い人じゃないんだけど……なんかごめんね」
オーエンさんが出ていったのを確認して、ミノリさんはマコトと俺を順番に見上げ、それから眉を寄せて首を傾けて笑った。
開け放たれた窓から、柔らかな木漏れ日が差し込んできて、ミノリさんを横から淡く照らしていた。ミノリさんの黒い瞳が木漏れ日を受けて輝いている。大人としての知性と、子供っぽい好奇心が感じられて、この人はマコトの母親なんだなと実感した。
マコトが手近な椅子に座ったので、俺はその隣の椅子に座った。
ミノリさんは奥の椅子に座って、俺を見る。
「それで、やっぱり日本人なの?」
「日本の東京で暮らしてました。ただ……なんていうか、俺の日本とミノリさんのニホンて同じなんでしょうか」
「えー、そんなこと考えてたの? そこ考えても仕方なくない? わかったところで戻れる訳でもないし、違ったところで困ることなくない?」
「え……いや、それは……そっか、困ることない……の、か?」
これまで考えてもみなかった言葉に面食らって、俺は言葉を止めて考え込む。
ミノリさんは「真面目だなあ」と呟いて、話を続けた。
「それにしても東京かぁ、中学の修学旅行が東京で上野動物園に行ったよ。うち、田舎だったんだよね……高校卒業したら東京で暮らすんだって思ってたなぁ」
「上野動物園か……行ったのいつか思い出せないです。……これ、同じ世界から来たと考えても良いんですかね」
「可能性考えてたらキリがないでしょ、そんなの。気になるなら、もうちょっと何かヒント探す? 何を話したらわかるかな?」
ミノリさんが腕を組んで天井を見上げる。
「荷物を見せたら何かわかったりしない? シンイチ、持ってきてるでしょ、服とか荷物とか」
「あ、そっか。ちょっとわたしも荷物持ってくるね!」
マコトの言葉に、ミノリさんは勢いよく立ち上がって、それからぱたぱたとドアの向こうに入っていく。
俺もそれでようやく自分の荷物を思い出して、服と財布とスマホを出した。服の間に下着が挟まっていて、それは慌てて仕舞った。考えたらマコトは俺の下着を洗ってくれたのか。急に
財布の中身も出しておいたら良いのだろうか。
五千円札一枚と千円札が二枚。小銭は十円玉が四枚だけ。最近は電子マネーかクレジットカードばかりで、あまり現金を使ってなかった。
免許証とクレジットカードと便利に使っていた交通系電子マネーのカード。ペンギンのキャラクターは可愛いので好きだった。
「お待たせ!持ってきたよ!」
ドアをバンと開けて、ミノリさんが戻ってきたかと思うと、両手に抱えていたものをテーブルの上にぶちまける。
「他の荷物は全部鞄に入ってたんだけど、こっちに来た時に鞄はなくなってたんだよね」
「あ、俺も、手に持ってた荷物はなくて、ポケットに入ってた分しかなかったです」
「あとは……下着もあるけど、それは流石に見せられないかな」
「いや、それは俺もそうなので、そうしてください。見せられても困ります」
ミノリさんは、俺の目の前に並んだ荷物を見て、丸い目をさらにまんまるにして「ね、ちょっと近くで見て、触っても良い?」と言った。どうぞと頷くと「君も近くで見て大丈夫だよ」と言って、俺の隣に来た。
俺はミノリさんと入れ替わるように、ミノリさんが置いた荷物の前に立つ。
ブレザーの制服とプリーツスカート。ベルトは時間が経っているせいか、表面がボロボロになっていた。白いブラウスと紺色のリボン。白くてやたら分厚いでかい靴下……これは多分ルーズソックスってやつだ。リップクリームの容器。リップクリームに似た容器……こっちは靴下が落ちないように留めるためのものらしい。青いヘアピンと茶色のヘアゴム。
高校の学生証には、おさげ髪の写真と「
「ねえ、わたしが知ってるお金には、女の人の肖像画は使われてなかったよ」
「お札のデザインは、何年前だったかな……変わってから十年は経ってなかったと思いますけど」
「平成生まれなんだね、わたし昭和生まれだよ……」
「ミノリさんが高校入学したとき、俺五歳……いや、四月なら四歳かな」
「平成生まれマジか……ねえ、この、これ何? 『れいわ』って読むの?」
ミノリさんが、俺の免許証の交付年月日と有効期限のところを指差す。そういえば免許証はついこないだ、元号が変わってから更新したばかりだった。
「平成は終わって、今の元号は令和です。今って言って良いかわかりませんが、令和元年、西暦だと二〇一九年になってました」
「にせんじゅうきゅう……」
「俺、ルーズソックスの実物を見るの初めてですよ。テレビの懐かし映像みたいなので見たことはあるから存在は知ってますけど。コギャルブームってのがあったんですよね」
「わたしの高校時代がナツカシか! 当時はコギャルじゃなくてもルーズソックス履いてたんだってばー」
ミノリさんは、今度はスマホを持ち上げて、ひっくり返したり電源ボタンを押したりする。
「この機械何? 電源入らないの?」
「電話です」
「電話……ケータイとかピッチってこと?」
「ピッチ……って、PHSか。ええと、スマートフォンて言って、まあ、そうですね、携帯電話です。電話以外にも、写真撮ったり、メール送ったり……あれ、ミノリさんの頃って携帯って写真とかメール……文字送ったりってできてたんでしたっけ?」
「ケータイもピッチもみんな持ってなかったしよく知らないよ。ねえ、これがカメラになるってこと? 文字を送るってポケベルみたいな感じ?」
「写真が撮れるんですよ。表裏のそこにあるのがレンズです。メールは、ポケベルよりももっと自由に文字や画像をやり取りできます。他にも色々できて、ゲームなんかもたくさんありました。ただ、これは充電が切れたので、もう何もできません」
「本当にこれで電話できるの?」
「それはまあ……ただ、俺は文章でのやり取りの方が多かったんで、あんまり電話としては使ってなかったですけど」
「だってこれ、数字のボタンとかないのに。どうやって電話かけるの?」
「画面に表示されて、それを直接触るとボタンの代わりになるんです」
「え、何それ未来じゃん」
「それはまあ……ミノリさんの時代から見れば」
「ねえ、どういうこと?」
マコトが話に付いていけず、ただひたすらに困惑した様子を見せている。
ミノリさんは、手に持っていた俺のスマホをテーブルに戻すと、マコトの顔を見てにっこりと笑う。
「大丈夫、マコト。わたしもほとんどわかんない。二十年後って別世界だね」
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一九九四年 カタカナの表示に標準対応したポケベルが発売開始
一九九五年 PHSサービス開始 / プリントシール機の発売開始
一九九六年 PHSで文字サービス(ショートメールの一種)が開始
一九九四年頃から携帯電話・PHSの価格競争が始まり、その頃から携帯電話・PHSの普及率が高くなっていった。
ポケベルは女子高校生を中心に一九九七年頃までブームが継続していたが、ショートメッセージ機能を持った携帯電話の発売と普及とともに、ポケベルの契約者数は減っていくことになった。
一方で首都圏や都市部を離れると、ポケベルにしても携帯電話・PHSにしても環境が未整備でそもそも使えないといった地域もまだ多かった。
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