第1話

 ここはどこなんだろう。視界一杯に広がる白濁の世界で俺は今素っ裸に仁王立ちをして思案した。無論答えなど出ない。状況を整理するため記憶を遡る。


 三十歳の誕生日を迎えた俺は、人生初の自慰行為を行った。今まで恐怖に支配されていた俺は自慰をすることができなかった。だがしかし、例のアダルトビデオを目にした瞬間、それを購入し、三時間に及ぶ激戦の上、ここにいる。俺は死んでしまったのだろうか。心あのとき感じた心臓の高鳴りを思い出す。胸に手をあてると小さな鼓動を感じる。


 そのとき背後から声がした。


「おーい」


 聞き覚えのない声。得体のしれない声は困惑しているらしい。一人ごとのように言葉を続けた。


「あれ、聞こえてないの?」


 二言目であるにもかかわらず、一言目に帯びていた矯正は消えている。俺はこれは夢なのだと自分自身に暗示をかけて声の主を無視した。無視されるのは悲しいから良い子はマネしないように。


「アタシの話を聞けー!」

 どこぞのアニメで聞き覚えのある台詞が耳を通過する。

 だが、それどころではない。背後の少女が俺の股間を蹴り上げた。股間に痛みを負った経験のあるものならば知っているだろう。重い一撃を受けると、何故か下腹部に対し強い痛みが発生する。本気の蹴りならば計り知れない。なので、続きは少し待って。




 落ち着きを取り戻した俺は声の主を見た。頭のてっぺんから、足のつま先まで舐めるように眺める。少女を属性で表すなら、金髪、褐色、ギャル、天使。この四つに分別できるだろう。なお、最後の天使とは彼女の格好のことだ。いかにもコスプレという感じで、少しよれている。


 何も語らぬ俺に、天使は口を開いた。


「アンタが童田貞治(どうだ ていじ)だよね? 童貞の」


 童貞、という部分にやたらと力が込められていた。憮然とした態度で頷くと、天使は嘲るように笑った。


「やっぱり。アンタが女神様の選んだ童貞だ」


 脳裏に焼き付いた彼女の蹴りを痛覚で思い出しながら聞いた。


「選んだ?」


「えっ、アンタ何も知らないの?」


「何故ここに居るのかも知らないんだけど……」


 褐色天使は呆れた、という表情を浮かべている。


「面倒だけど、一から説明するから聞いてね」


 飲み込むにはあまりに歪な状況だが、横槍を入れても解決しないので黙ってうなずいた。


 天使から語られた内容をまとめるとこうなる。


 とある異世界で、ヴァスキュリアと呼ばれる魔王が暗躍し、全ての男が童貞を失った。この魔王を倒すためには童貞が持つ特殊な力が必要である。そのために天界に住む女神アイラが、俺の住む世界で適任者を探したところ、この俺が選ばれたというのだ。


 うむ、まったくわからん。


「何故俺なんだ」


 当然のように浮かんだ疑問にはすぐさま回答が与えられた。


「そんなの決まってるじゃない。アンタが童貞だからよ」


 しばしの沈黙。


「帰る」


「ちょ、ちょっと待ってよ! 何でそうなるのよ!」


「当たり前だろう。なんで俺がそんなことに付き合わなければならないんだよ。さっさと帰してくれ」


 全裸にも関わらず息巻いたせいか、予想していない答えが返ってきた。


「アンタは死んだのよ」


 はっ? いけない。口に出すのを忘れた。


「本当にか?」


「向こうに居た最後の記憶を思い出してみなさいよ」


 記憶を巡る。電源を抜かれた家電のように意識が途絶えたあの瞬間を記憶から呼び起こした。


「あれって意識が途絶えたわけじゃなくて……」


「そうよ。あなたは女神様によってこちらに連れてこられたのよ。テクノブレイクによって強制的に」


 日々楽しく生きていたわけではない。不満や行き場のない怒りを抱えて生きていた、あの世界ではごく普通の人生。そんなありふれたものでも、突然奪われれば悔しさのような感情も湧き起こる。何気ない日常に感じていた真意に目を瞑る。


「冗談はよしてくれよ。俺が死んだだなんて、冗談はよせ」


 時には言葉で納得することができないこともある。挑発するように少し呆れた表情を浮かべた。天使は俺の背後を指し示した。振り返ると先ほどまで何も無かった空間に円形の映像が浮かんでいる。俺は息を飲んだ。


「これって……俺の葬式か⁉︎」


「そうよ。滞りなくお葬式は進んでいるわ」


「冗談じゃないぜ」


 俯瞰した映像は途切れると姿を消した。


 薄く開いた口からは泣き言が漏れ出しそうになる。死んだら全てが終わると考えていたが、どうやら違うようだ。夢や目標が雪崩のように頭を駆け巡る。


 俯く俺に天使は言った。


「アンタは確かに死んだ。いえ、殺されたという方が正しいかしら」


 俺は顔を上げた。


「でも、もしも魔王を倒すことができたなら、女神様はアンタを蘇らせてくれるそうよ」


「本当に?」


 鼓膜を震わす言葉には全て真実味がない。しかし先程の光景を見せられて信じないわけにもいかない。


 俺は意を決した。


「よくわかんねぇ……でもやるよ。俺にしかできないんだろ」


 柔らかな笑みを浮かべた天使は小さく頷いた。

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