第五章 その7 緑川紅宇(みどりかわくう) 『埋葬されなかった魂。』

十年前。

たった一度の失投から試合に負けたお父さん。

誰も、お父さん達を非難する事など無かった。


それでも明らかに意気消沈している様子だった。

今にして思えば分かる。

母さんから聞いていた話ではお父さんはその前のオリンピックも代表にはなれなかったそうだ。

そして今回もダメだった。

その次は?

年齢的に厳しいと感じていたのだろう。

何よりも生活。 

日本でカーリングを続けるという事は、並大抵ではない。

大半のカーラーは他に仕事をしながら、空いた時間で練習をしている。

スポンサーが付けばまだ良いが、遠征の旅費その他費用は大抵が自費だ。

家族を抱えて、生活は楽ではなかったろう。


ある雨の晩。

アタシは気配を感じて布団から起き出した。

その日は眠れなかったのだ。


「こんな日くらい休めないの?体調良くないでしょう」

「うん。うん。大丈夫さ」

母さんとお父さんのやり取りが聞こえた。


お父さんが夜にも掛け持ちで仕事に行っているのは薄々知っていた。

お父さんは隠したがっていたけど。


その日もきっとそうだったのだろう。

その日はアタシの誕生日で。

ささやかに誕生日パーティーをしていた。

その時のお父さんは。

何と言うか。

薄かった。

消えそうなくらい。

何か。

とても大事な何かが、薄かった。

があったから、今そう思い出すだけなのか。

暗い電灯のせいなのか。

とにかくアタシにはそう見えた。

アタシはわざと目を擦りながら、さも寝ていたフリをしながら、玄関に歩いていった。


「紅宇はお布団に行きなさい」


「お父さんは何処に行くの?」


その問いにお父さんは少し迷ったようだった。

大きな手でアタシの頭を撫でてくれた。


「カーリングの練習さ」


それが嘘であると子供のアタシでもすぐに分かった。

だってあの試合に負けた日から、重い重い木製のカーリングブラシも、つま先がテカテカになったシューズも、画面がひび割れたストップウォッチも、ほつれたグローブも。

それら全てがみんな埃を被っていたから。 


「…お父さんはもうカーリングしないの?」


今にして思えば。

子供は残酷だ。

アタシは感じた事をそのまま素直に口にしていた。

お父さんは少し驚いて。

寂しそうに笑った。


指の隙間から見えたお父さんの顔。

無精髭を生やして頬は痩せこけていた。

手は大きくて、ブラシを握るマメが出来ていて。

ゴツゴツしていた。


「紅宇が、父さんの代わりにオリンピックを目指してくれないか」


寂しそうな笑顔のままお父さんは言った。


「うん。分かったよ」


そしてお父さんは出掛けて。

二度と戻らなかった。


交通事故を起こして。


◆◆◆


お父さんのお葬式の時。

あの、お父さんが使っていた道具は全て棺桶に入れられるはずだった。

死装束にカーリングブラシとシューズ、ストップウォッチにグローブ。

きっとお父さんにはどんな死装束より似合うと、大人達は泣きながら言っていた。


「紅宇」


呼ばれたのだ。

お父さんに。


「だめ。燃やしちゃ、だめ」


アタシは大人達からブラシを、シューズを、ストップウォッチを、グローブを奪い取った。

重い重い木製のカーリングブラシは重量以上に後悔の分だけ、重かった。

つま先がテカテカになったシューズは、アタシには大きすぎるけど。

でもいつかきっと。

いつか必ずアタシの身体が追い付くはずだと思った。

画面がひび割れたストップウォッチは、スイッチを押すと動いた。

まだ時間を刻める。

ほつれたグローブからはアイスの香りがした。


「アタシが、アタシが使う」

アタシは泣きながら、鼻水を垂らしながら叫んだ。


お父さんのフォームはアタシが一番近くで見ていたから。

バックスウィング投法で美しく弧を描くストーンの軌道を、アタシは覚えているから。


この時から、私の終わらない夜が終わらない。

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